武田俊

2018.8.6

空中日記 #018|祝祭と日常

7月20日(金)

渋谷で打ち上げして、そのあと有志で路上で飲み、そこまではよかった。とにかく愉快だった。そのあと最後のいっぱいが余計だった。あまりに楽しくなってしまったぼくは、あいださん、じゅんやさん、とんかつさんを、下北沢のお母さんのところに引っ張っていってしまった。すでにホッピーセットを4ターン、そのあとハイボールやらなんやらをいくつか飲んでいた。その状態でこの酒の濃い店に行ったら……。

なんてことはまったく思わず、思っている今、天井を見ている。それで1日が終わった。1日天井を見ていたわけではないのに、それしか残っていないという日は、たまにある。

と思ったが出かけていた。出かけざるを得なかった。苦手なスーツを明日着なければならず、夏用のシャツがないので何か適当なものを調達しなければ。それで新宿に行って、とりあえずいつものように紀伊國屋書店に行った。ほしい本がいくつかあったはずだが、自分の理想とする文章で記された物を摂取したい心持ちがした。疲れているときにレバーや精のつくものを食べたいと思うように。それで選ばれたのは片岡義男『去年の夏、ぼくが学んだこと』だった。しかし、身の回りに比較的近年の(ぼくはそれがとても素晴らしいと思っている)彼の作品を支持する友人が少ないのだろうか。読んでいないのだろうか。

ドレスシャツのサイズなんて忘れてしまった。
うーむとしていると、お化粧が濃い目で攻撃力高めの女性店員さんが声をかけてくれ採寸してくれた。優しく気がまわり声の大きな人。店員さんとして好きなタイプ。あと15年経ったら、めちゃくちゃ気のいいおばちゃんになりそうな人。そのわりにはちょっと美人すぎる、そんな人。

7月21日(土)

ぼくたちのキャリアのはじめは、学生時代につくっていた『界遊』というインディペンデントの雑誌で、その制作メンバーの結婚式だからぼくは早起きをした。色んなところでぺらぺら、その打ち上げでもぺらぺらとしゃべってきた人生だから、披露宴から出席するような時は大抵何かしらの役が回ってくるのが常で、今日は乾杯のあいさつをやることになっていた。

会場は母校そばの神楽坂のホテルで、そこに到達するには、あの竹子を通り過ぎるルートが1番近いようだった。その事実に小躍りさせられた。生ビールともつ煮込みがどちらも180円で、そのどちらかばかりをえんえんと頼んでいたあの竹子が、帰ってきたぜ!となった。

その前日納会だったという新見がやってきたのは、定刻を少し回ってからだった。ヘロヘロの状態でなんとかタクシーでたどり着いたかれは、「わりい、ネクタイ結んでくれない?できないんだ」といった。でもネクタイなんてどこにもなかった。あれあれ、そんなはず、と言っているあいだに式を開始する旨が会場に伝えられた。

よい式だった。
というか、結婚式というのはおしなべてよいもので、ぼくはその両家の関係者と友人が一同にその新郎と新婦の出会いから今までを祝福し、そしてこれから先の未来について祈るという場全体が好きだった。タクシーに忘れたネクタイを運転手さんが届けてくれたから、なんとか胸元をしゃんとさせることのできた新見に
「ぼく結婚式すきなんだ」とはなすと
「おれも。スライドがすき」とこたえた。
あらゆる式典の類が苦手だと思っていたから、意外だった。

ふたりの弟がちょっとした出しものをして、新郎と肩を組んだ時、強烈に男兄弟ってすばらしい、という気持ちになった。昔のメンバーたちとも話せて、二次会でも楽しく過ごした。そのあと、新見ときのことカラオケにでもいこうぜ、となり、その手前でぼるがに行った。腹はもうぱんぱんだった。

そこでぼくは、自分がずっと彼らに対して引け目に感じていたことをたしか伝えた。体調を壊してやめてしまったり、リーダーシップを取り切れなかった後悔は、まだ胸の奥にしっかりと残っていた。ほんとうに色々なことがあった。ある種の人々はある時代、その後法人化して活動していったぼくらのことを過度に評価してくれていた気がする。それはありがたい。ただ別にぼくらはスマートではなかった。ほんとうに色々なことがあって、それで楽しかったり傷ついたりするわけで、ただそれでも傷が回復した部分の皮膚はいくぶんか厚くなるから、そうやって繰り返してぼくらは強くなっていったのだった。

7月22日(日)

反動でずっと死んでいた。まったく家からでないことが、こういう風にたまにあってそれがまたリズムをおかしくさせるけど、それが何かを生むのか。これも終わらない青春のツケなのか。