武田俊

2018.10.4

空中日記 #023 |絵を描けば、それは挿絵になるということ

9月24日(月・祝)

ビニールのシャワーカーテンを抜けると、そこには少なくみても70名くらいの人間が全裸でいる。照明はうすぐらく、といっても決していい雰囲気なんかじゃない。タイルが少し剥がれ落ちうらぶれた雰囲気で、そこは上空から俯瞰してみればひょうたん型をした空間だということがわかる。中央には大きな浴槽があり、それを囲むようにしてシャワーブースが並んでいる。公衆浴場では眼鏡は外すことにしているから、ぼんやりとしか見えないが、ひょうたんの上部の円形、つまり今立っている入り口から見て最奥部はそのまま女湯、のような部分につながっているらしい。

その女湯になっているはずの奥のスペースから、無音の銃声が聞こえて、それでもあたりはパニックに陥る様子はない。それでも無音の銃撃は止まず、奥から足元に向かって粘度の高い、どろりとした大量の血液が流れ込んでくる。

最近よく観るパターンの悪夢をまた見てしまい、二度寝を決め込むことにした。カルロス・レイガダス監督の『闇のあとの光』に登場する、ハッテン場のようなサウナのシーンが、おかしな変換をされてこの夢が生まれた気がするけれど、しかしこれは劇場で観ていて、今調べてみると2014年のことだ。4年経ってなぜ今夢になって出てくるのだろう。終始画面の角にガウスがかかっていて、おそろしく不穏で、しかし美しい映画だったことは、それでも今もすぐにシーンを伴って思い出すことのできる作品のようだった。

じゅんこは祝日も講義のあるタマビに出かけていって、かつ地元に今晩寄るとのことで、久しぶりに東京で一人で過ごす日となる。

このところ4週間続けて週末は東京を離れていて、その疲れもあるだろうから今日は一日家で過ごすことにした。それでお昼ごはんに、先月のキャンプのときに買ってきたよもぎそばを茹でて、昨日三崎でお土産に持ち帰った2種類のまぐろの角煮を乗せて食べた。「海のさちと山のさちが出会っちゃいますね〜」とこのアイディアを思いついたときは、ごきげんになった。旅先では日持ちを狙って調味料や保存食を買って帰ることが多いけど、ふいにこのような出会いが生まれるのでおもしろい。Elephant Gymを聞きながらさっと食べる。

三崎のゆうぐれを思い出しながら、『いしいしんじのごはん日記』を読んでいると、ずっとゆったりとした暮らしとひたすら魚を食べ続けている日々の中で、ふいに不穏な言葉に出会ってどきっとする。創作のメモとして、新聞記事をスクラップしたそうなのだが、それが足の悪いだんなさんを轢き殺してしまった58歳の奥さんのはなしだった。なんでもリハビリ帰りにだんなが転んだのにあわてて、奥さんは車から降りて駆け寄ったところ、ギアがドライブのままでハンドブレーキも引いていなかった。ゆっくり動き出す車にさらにあわてた奥さんは、急いで運転席に飛び込んでブレーキを踏み込みます。ところがそれがアクセルで……。というあまりにも酷い話。しかし、ものすごく心が反応してしまったわけで、ここでふう、と大きく息をついて、ページを閉じる。それでぼんやりと、つい先週仲間うちで、坂口安吾のいう「文学のふるさと」について話していたことを思い出す。ストーリーテリングとか技術以前の、因果関係すら発生する前の、むき出しのむごたらしさ、のようなものに、なんで僕たちはずっと反応してしまいのだろう。

いくつかの原稿に手入れをした後、夜は雑なチャーハンをつくって食べる。それでその後に、『Marvel’s Spider-Man』を少し進める。これはオープンワールドの煩わしさである移動をスパイダーマンならではの、蜘蛛の糸を使ってビルの合間を駆け抜けていく動作で解決しているまことに素晴らしい作品だ、というのが大まかな下馬評なんだけど、そのよいとされている部分こそぼくはあまり乗れないまま進めていた。広大な空間に、人々の暮らしがあって、それが町ごとに変化していく流れ——例えばそれは車や人々の服装の変化、洋服屋で扱っているブランドの差異などから見える所得のあり方などなど——その移ろいを遊歩すること自体に、ぼくのオープンワールド系のゲームに感じる喜びのすべてがあるということを、このスパイダーマンのゲームは逆説的にぼくに知らしめることになっていった。ただ今日はちょっと趣向を変えて、先に細かく舞台となっているマンハッタンの地図を眺め、観光客がするような下調べを行ってからプレイしてみた。すると、少しずつではあるけれど、そのビル間の高速移動の中にも少しずつ遊歩感が生まれていくようだった。

夜、Netflixで『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』を観る。文学のふるさと、とは打って変わって、ひたすら因果報応の話。それでもやっぱり好きな映画だった。ライアン・ゴズリングは言わずもがなだが、デイン・デハーンの繊細な演技にクラクラする。美しいけどあざといなーというカットもあるけど、それでも好きな作品だった。2013年の映画。夢となにか関係しているのか? しかし最近はどんな物語作品を楽しんでいても、心が反応するシーンがあるとその心の動き方がさらに発展して、自分が書くだろう物語やエッセイの発想につながっていく。それがいいシーンごとに起こってしまうのだから、もう頭の中がせわしなくってしょうがない。いよいよ、いよいよだ、と思って、とりあえず日記を書くことにしたというわけで、さあこの後ぼくは「作品」にとりかかることができるのでしょうか!

オートハーフで撮ったものをいくつか。これは30周年の今池まつり。nobodyknowsがライブをしていた。

夕方なのに朝みたいな光になった三崎の町並み

9月25日(火)

雨。パレットプラザに出していた、フィルムの現像を取りにいく。本当ならプリントしたいし、むしろ本当ならくたびれた町のカメラ屋さんにお願いしにいきたいが、このオールドメディアを扱うのはむしろこういう店になっていることのおもしろさ。プリントはしないで、期限付きのクラウドに現像したデータをアップしてもらい、QRコードで読み取ってダウンロードするという仕組み。それでもネガは手元にやってくるわけで、どきどきしながら見てみるとやはり半分ほどまっしろ。これは初めて現像に出した前回も同様で、さてこれはどうしたことだろう。

それを野球仲間であり、カメラの先生でもあるとんかつさんにLINEで聞く。かれいわく、どうも入手したリコーのオートハーフのシャッターに問題があるようだ。ついでに夜飲むことになり、下北沢で待ち合わせて地下2階、天井が4メートルくらいあって、そこに全長4メートルくらいのトカゲのオブジェが這っているという好きなお店にいく。

いつもみたいにパキスタン焼きそば(香辛料バキバキで味付けしたラム肉と生の玉ねぎが、焼き付けた麺に乗っている)と、モモを頼む。きっと町と野球の話になるだろうと思って、ぼくが担当してもらっている美容師さんを呼ぶ。弟がプロ野球選手なのだ。想像通り野球と町の話になって、楽しくなり自家製のリキュール「モリ」(メメント・モリからとられている。材料は頼んでも教えてもらえない)をロックでぐんぐん飲んでしまう。

まったくすーぐこうなってしまう。帰り道、美容師さんから「たけださん前飲んでぐらぐらの時、めちゃ遠回りしながらタクシーで謎に送ってくれましたよね」といわれる。ひえー、なんだかすみません。とんかつさんも重ねる「たけだは無理してなければ、酒飲んで荒れることもないよね」。そうそう、楽しい酒がいちばんです。日中か夜、どこかで高橋源一郎『さよならクリストファー・ロビン』を読む。こちらは「さようなら、」という表記ではないのだな、と思いながら。

名古屋のセントラルパーク地下でのブロックパーティー。小林うてなを見ている女の子。

館山の安房神社の大鳥居

9月26日(水)

スペクトルが反転し、日中まったく動けなくなる。その上発熱。季節の変わり目と気圧のダブルパンチを受けて、試合前からノックアウトという状態。こうなったらろくに本も読めないので、ベッドでひたすらうなる。うなりながら、昨日もらってきたリコーオートハーフの写真のデータをダウンロードする。

なんだかもう、デジタルで写真を撮ることがおもしろくなくなってきてる。数が撮れる、その場で確認できるというメリットがそのままつまらなさに転じている、ということももちろんあるが、はてこれはもっと重要な体験の差があるのではないかと考える。灰色の脳みそでは核心までは至れなかったが、重要なのは限られた撮影回数を持ち歩くこと、そこで何をシャッターを押すために何を選択しているのか、というのが大きいと思う。そしてその状態だからこそ、とらえられる世界というか、その環境下では世界の見え方が必然的に変わるわけで、その変化がどうもぼくにとっては好ましいようだった。

夜、どういう経緯か忘れたけれど、じゅんこが帰ってきて、ぼくがイラストを描くことになった。うちには彼女の仕事柄大量の画材があり、なのでぼくはふんだんな中からコピックの好きな色を選んで彩色した。小さな頃は図画工作が一番好きで、近くのアトリエで油画を習っていた。多摩美か藝大、どちらか出身の先生だった気がする。そこで、今でもたまにライブや飲み会でも会う、おんなじ団地出身のそらくんと仲良くなったことを思い出す。

とはいえ、ただ楽しく描くことを重んじるアトリエだったから、技術的なことはまったく習っていない。だからパースはとれないし、線はギザギザ。それをじゅんこはおもしろがり、仕上がって絵をほめてくれる。その様子がとても楽しそうだから、ぼくはどんどん描く。どんどんほめられる。そして10枚のイラストができあがった! なんという楽しさ、そして絵を描くことって全身を使うのですね。スポーツのあとのような披露。それをぱしゃぱしゃ撮って、きれいにレタッチしてみる。なんだか新しい感覚。世界が前より立体的に色づいて見える気がする。お昼間、灰色だったからその差に網膜がよろこんだ。

いつかの新代田キャッチボールクラブ。練習後のランチ打ち上げ。平日の昼間からみんなでビールを飲んだ。

練習後の記念撮影の立ち位置を支持する會田監督

9月27日(木)

今日もイラストを描く。Instagramにどきどきしながらいくつか上げたら、なんだかうれしい反響をもらった。特に、アートスクールを出ていたり、何かしら創作に関わる人たちから、そぼくなまなざしでほめてもらえる。手元にある技術だけで、子どものときのような手つきで(それはぼくら誰しもがいま手にしている技術に、はじめて触れた時そうだったように)何かをスタートさせているからなんだろうな、と思う。そのようなほめられ方は、すっごくうれしい。子どものときのプリミティブな気持ちだけで生きている状態だから、客観視するターンが生まれてもそこで天狗になることを自分に許す。じゅんこもそうしてくれる。「才能があるんだから、描きつづけないとね〜」「はーい! どんどんイメージが湧いてくる! みんなに見てもらいたいから今日も描くよ〜」という感じ。

描くものは家にあるもので、それをよくみて描く。技術が足りないから、写実的にはならない。線はおぼつかないが、あるリズムの中でペン先は進んでいく。写し取ることができない分、エモーショナルな部分なのだろうか、そのような抽象的な要素が入り込んで、つまり事実に心象風景が重なって描画されていくような感じ。それが心地よい。じゅんこが描きあがったものから順に、裏にマスキングテープを貼ってリビングの壁に貼っていってくれる。それを眺めていると、もうすぐ引っ越すことになるだろうこの部屋に、子どものときに過ごしてきたような時間が生まれる。

これは挿絵なんじゃないか。
ふとそう思ったから、1枚のイラストにあわせてエッセイを書いてみることにする。イラストのように肩の力を抜いて、上手にしようと思わないで。ワンアイディアだけで、その描かれた対象についてのアナロジーで、短いエッセイを書く。だいたいひとつ800字〜1000字程度の軽いものを。それをいっきに11篇書く。するとこれは本であるべきだと思う。「冊子にしようかな〜」といったら、同じようにわくわくする気持ちで過ごしていたじゅんこが、イラレで組版をしてくれる。今年1番、Facebookのポストにつけられるアレでいいうと、生きている気分、になる。

9月28日(金)

今日もひとつイラストを描く。そうして朝から、昨日つくってもらった組版データをプリントして、小冊子をつくることにする。A4のプリント用紙の左側にイラスト、右側にエッセイという体裁で、20Pを越えるから束にも厚みが出た。一枚一枚のりで張り合わせて、タイトルは「日々のしぐさ」というものに決定。英題で「Daily behavior」とつけたが、果たしてニュアンスはあっているだろうか。毎日やること、と、その時の世界の側の手ざわり、しぐさ、というニュアンスであったらいいなあ。せっかくなのでなんでこんなことをはじめたか、という感情をふりかえりながら記し、それをあとがきにした。表紙は描いたイラストをもとに、じゅんこがコラージュをこしらえてくださった。うれしい。

夜は村世界の交流会。
毎回入居ブースが主宰することになっていて、今回はトーチ編集部プレゼンツということで、ダブ丸さんはやってくるだろう。前にWebベースのエッセイメディアをやりましょうよ、と話していたからこの冊子はダブ丸さんにプレゼントしようと思って、うきうきする。すると、たかくらにも何か上げようと思って、エッセイにも登場した西表島で買ったセイロンベンケイソウが育ったので、その葉っぱを一枚、封筒にいれる。封筒には葉っぱのイラストを沿えた。その写真をInstagramにアップしたところ、イラストに沿えたサインがだるい、みたいなことをコメントされて率直に落ち込む。このサインは小さな頃通っていたアトリエで「絵の右下にはかっこよくサインを書こうね。すてきな画家はみーんなそうしてきたんだよ」と教わったときに考案したサインで、それを久々に書いた楽しさに身体中が満ちていたところだったから、思ったよりどよーんとした気分になって、イラストなんて描いてよろこんでいたのばかみたい、とダメージを受けてしまう。子どもの気持ちでなにかをしているときは無防備で、だから子どものように途端に意気消沈してしまうのだなあ。冷笑やひやかしって、だからよくない! ぼくはそのクオリティや技術が伴わなかったとしても、つたなくとも何かを始めた人間のことは、にこにこして眺めていよう、と決めた。

病み上がりだったから、交流会ははやめにおいとました。安東さんがやってきたので、冊子を見せたら「ふつうに絵、いいと思うよ」と言ってくれるから、ふつうに回復した。うれしかった。

範宙遊泳新作の稽古は急な坂スタジオ。日の出町からいくとすごい傾斜の階段を登ることになる。

夢のような移動する風景

9月29日(土)

SKDLの取材で、朝戸田公園へ。現地で長畑くんと会い、小学校で開かれているグライダー大会に向かう。予想以上の人だかりで面食らう、とともに、子どもがたくさんいるだけで場のエネルギーが高まって、それだけで幸せな気持ちになる。グライダー、着地部門と輪くぐり部門があって、子どもたちは短時間で習熟する。どんどんうまくなる。一方で、まったくルールに関係なく、つまりうまくなろうともせず、思いっきり飛行機を投げつけて大笑いしている子もいる。
「武田さん、どのタイプの子どもでした?」
そう聞かれて
「グライダーはやらず、あっちでやってるフリーマーケットでなんか恐竜の自作グッズを隅で売ってるタイプだったよ」
と答える。虚弱児だったことをたくさん思い出す。

取材が終わって、軽く飯でも食いながら打ち合わせしましょう、と思って適当に思われる店はサイゼしかなかった。久々のサイゼは楽しかった。フリードリンクというシステムは、お店への滞在時間から生まれる罪悪感を消してくれ、ぼくたちはなんとそこで3時間以上おしゃべりをした。それをぼくは、ノンアル飲み会、と呼ぶことにした。普通の飲み会はどうも飲みすぎて、べろべろになり忘れちゃうのがもったいないから、たまにこういう飲み会もよい。烏龍茶ばっかり飲む。

夜、コッポラの『レインメーカー』をNetflixで。
本当はじゅんこに、ぼくのオールタイム・ベスト『グッド・ウィル・ハンティング』(ラストシーンのベン・アフレックの表情でいつも泣く)を見せたかったんだけど、なんとNetflixでのライセンスが切れていた模様で代打として。でもこれもよい。なんといってもこの時期のマット・デイモンが大好きなのです。青春×法廷モノって、なかなか大変でしかしよくできたシナリオ。逆転裁判シリーズやり直したくなる。

空中キャンプの渋滞。LomographyのISO100のフィルムでこれ。夏の光は今と全然違ったんだなあ。

じゅんこ実家のお祭りの屋台

9月30日(日)

今日の絵は、スニーカー、キノボリアマガエルの目が赤いやつ、プリンスのライターの3点。今日は台風だと聞いていたから、ずっと引きこもっていた。

範宙遊泳の11月の新作は、戯曲制作もいよいよ佳境といったところ。すぐるくんが少しずつ更新していくそれを、ぼくは基本的に「ここがすばらしいなあ」と素朴な目線でコメントをしながら、その上で気になるところをレビューしていく。その作業が単純な仕事を越えてとても尊い時間になっている。戯曲はそれ自体が単体として自立した文学作品であり、かつこれから演じられる舞台の設計図でもある。それを世界で最初の読者として読むということ。数行読んで目を閉じれば、まぶたの裏にまだ生まれていない舞台が見える。こんな舞台美術なんじゃないか、と想像しながら読む。稽古に参加した後からは、俳優たちの姿も見える。彼らの立ち位置と運動が意識の外側から流れ込んで、記されたテキストに合わせて動きはじめる。

西加奈子『あおい』が届いていたから、読む。西さんはエッセイは読んでいたけど(ちくま文庫から出ている『この話、続けてもいいですか。』は抱腹絶倒だし、どこからか出てたごはんモノもよい)小説はなんか自分にはあわないんじゃないか、と勝手に避けていた。

これはデビュー作で、本人も帯で拙いといっているし、解説で山崎ナオコーラもおんなじように言っていたけど、とってもよい作品だった。というか、ぼくが小説を書くとしたら、ひょうっとしてこっち側のものになるんじゃないだろうか。純文学とエンタメみたいな二項対立で線を引く、なんて時代じゃないしそんな風に分けて考えられないほど色んな作品があるのが今だけど、無理やり引いた場合、ぼくはずっと純文学よりのものを大学生以降大切にしてきた人生だった。

だけど考えてみれば、それまでの子ども時代からの幸福な読書というのは、そんな線引など関係なく、ただ心が動くままに選んだ本を純粋に楽しんでいた時間で、だとすればそのような感覚で文章を書いていたい。というか、そのような感覚で本を読む人にこそ届くものでありたいと思う。それは例えば、自分の母親や、決して本読みというわけではないけど、たまにとてつもないセンスで素晴らしい本を引き当てる友人がイメージされる。かれらに届かない文章を、ぼくは書きたくないなあと思う。

夜、RIZIN。
最近の格闘技界の興行的な動きって、あんまりわからない。K-1との関係性ってどんな感じなの? 谷川貞治っていまなにしてるの? 今度格闘技ファンに聞いてみよう。それはともかく、やっぱり堀口恭司VS那須川天心のカードなんである。これに興味があってテレビをつけているわけで、大砂嵐とボブ・サップなんていう醜悪なショウを見せられてしまい最初げんなりしていた。巨体がぶつかりあうことをメインにするなら、MMAじゃあなくたっていいのにね。スポーツとショウの境目を考えてしまう。今日は線引の間を考えてしまう日なのかもしれない。

堀口、那須川戦は久々に格闘技を見ていて心地の良い試合だった。試合までしっかりとトレーニングをしてきた身体と研鑽された技術が、キックのルールの中でぶつかりあう。(伝統派と極真という違いはあれど)空手の世界から格闘家としてのキャリアをスタートした二人が、それぞれまったく異なる技術でもって向き合っている時の、リングの静謐さ。那須川の胴回し蹴りは、トリッキーというよりも堀口のファイティングスタイルに対してはむしろとても合理的な選択で、1発もらってしまったあとたしかにかれの動きは落ちていた。不運なローブロー2発がなかったら、どうなっていただろうな。と思いながら、負けてしまっても堀口はからっとした湿り気のない初夏の空気のような気持ちのよい笑顔で、インタビューに答えていた。誠実で速く強いすばらしい選手だと、UFC時代からずっと思っていることを、またこの日も深く深く思った。