4月29日(月)
RIZIN46を久々にリアタイ視聴。大学のときに一緒にバンドを組んでいたわたるもめずらしくリアタイで、LINEで感想をチャットのようにやりとりしながら見る。ラウンド間の1分で、ここまでの展開についての感想を交わすとき、それぞれ格闘技を趣味で習っている(いた)立場だからの、中途半端なわざ言語みたいなものが交わされるのが楽しくて、それをずっとやっていたので、トータルで4時間強ずっと会話していたことになる。
見逃し配信で見る、といっていたうすいさんが思っていたより早く見逃し回収をしていて、そこでもちらっとやりとり。格闘技、ひとによって語りが全然違うので、感想戦がまるで読書会のように楽しい。
4月30日(火)
朝、恐らくイオが生まれてからはじめての重めのうつ。それでも5時起きて、おむつ、ミルク、離乳食までぎりぎりでこなして、なんとか保育園に送ってゆく。外に出たらそのきっかけでどうにかなるか期待したけれど戻らず、夕方まで寝込む。じゅんちゃんが帰宅してからフリーズドライの食材にお湯をかけたように、じわっと元の形に戻っていった。
夜、お風呂でiPhoneを見ていたら、パレスチナ関係のテキストをきっかけに、最近感じていたさまざまな運動への参加を呼びかけることばに体する違和感への、自分自身の返答のことばの断片のようなものが、温泉のように湧き出てきて体が熱くなった。出てそれをすぐに書く。5000字くらいを一気書く。こういう時、書き始めると思わぬところにたどり着くことが最近増えた。ほんとうに、書くまで思っても想像してもなかった場所にたどりついて、そこで想像してなかったことが起こる。深夜2時、ニュースレターの配信設定をして、運動後のようなほてった体で眠る。
ひる、つくりおきのとりキーマ
夜、ミルクでつくった辛ラーメン(そのままだと自分には辛すぎる)
5月1日(水)
六本木で展示めぐりをしたいというじゅんちゃんについて行って、久々にデート、という予定が全然体が動かない。雨も降っていたのもあって、じゅんちゃんも明日にするとのこと。午前中はふたりで、ふだんイオを寝かせている和室でごろごろ寝ていた。
昼、チルドの山本屋の味噌煮込み。
これは同封の出汁パックで出汁をとるところからはじまる、やや不親切だからこそおいしいもの。ちゃんと山本屋の味がする。土鍋でつくって、そのままダイニングテーブルにどんと置くと、豊かな気持ちになる。
昨日のレターは朝の7時に配信予約をしていて、なのに午前のあいだにいくつかコメントが届いていた。政治的な内容だったのでWebサイトではなくニュースレターを選んだわけだけど、それでも少し緊張していたので好意的な感想でうれしい。午後にはまったく見知らぬひとからのコメントもあった。使っているニュースレターサービス・theLetterにはいつのまにか「書き手のみに公開」という機能があって、だいたいつくコメントはこれ。つまり、「ある一定にひらかれた手紙」に対して「手紙」で返事ができるというメディア体験で、シンプルな機能だが芯を食っていると思う。この感じのやりとり、往年のブログでのコメントやトラックバック(トラックバック!)の楽しさが思い出された。
夜、スイッチが入ってちゃんとつくる。
なすとみょうがと豚肉の味噌炒め
ホタルイカの和えたの
ピーマンとしらすと塩昆布
なすとみょうがの炒めものは、大学生のときに川上弘美のエッセイか日記で読んだもので、その取り合わせの妙にどきどきして、つくってみたらうまかったので、それ以来ずっとつくっているもの。おいしいので好き、というのもあるが、当時みょうがに火を通すなんて発想がなくて、それに驚き、その選択がありだということに何かとても自由がものを感じて、その感覚を忘れたくなかったり思い出したかったりする、そのためにつくり続けているのだと思う。
夜、『Fallout4』。このゲームはナラティブもそうだが、世界観が一番の魅力で、それをプレイヤーの伝えるためのUIの設計がピカイチなのだ、と改めて思う。そして自分は、ゲームの魅力をシステムアクション性、ストーリーに求めるのではなく、UIに求めているのだと感じ直す。このときのUIはゲームの世界とプレイヤーをなかだつもので、とてもメディア性を帯びていものなのだ。
5月12日(日)
昨晩、ため込んでいた日記を一気に書いて、ようようとした気持ちで寝た。今朝起きて、朝ごはんをちゃんと食べ、じゅんちゃんがイオを見てくれている間に、1日書きそびれていたことを思い出し、pomeraにむかったところ誤操作で5月の日記データがからっぽの状態で上書きされてしまい、データ喪失……。最悪だ。10000字吹っ飛んだことは、まあいいとして、特に木曜日の気づきをうまく言語化できたパートがなくなってしまったことがとてもかなしい。
この日記を自分で読み返すことは実際のところほとんどなく、ならばなぜ書いているのかというと、認知行動療法的なものの一環である、ということもあるし、出てくるものを止めないとか、武田百合子『富士日記』が好きすぎてそのまね、みたいなこともあるのかもしれない。
読み返さないことがほとんど、ということは、同時にたまーに読み返したりするということでもあって、そういう時の自分のために、大げさに書いておくと、君は先週の木曜日に、かつて自分が入居していたシェアオフィスその場所でコロナ以来久々に開催されたバーイベントに出かけた。以前よりイベントはこじんまりとしていて、それが心地よかった。今は小田さんひとりのオフィスで、全体の半分は萬波さんの古着屋になっている。君はそこで、着物のようなのを見つけ、刺繍がすばらしくそれを小田さんに伝えると、とても古いもので、現代だったら刺繍が盛られているのを見せるためにその中身にウレタンを使うのだが、当時はそういったものはなく、かわりにい草が使われてるということを教わる。その中身のことを小田さんは“あんこ”と呼んでいて、ああそういう風に使う“あんこ”のことを知っていたけど、ちゃんと言語として活用されている場面には久々にあったなあ、という感慨を持つ。吉田山くんがいて、牧さんとお連れさんがきて、花井くんがきて、泰平さん、あんどうさんもきた。楽しんだ。楽しんだ帰路、なぜ自分がWAISで認知能力に大きな偏りがあり、またその傾向があるにもかかわらず「空気や行間が読める」という理由でアスペルガーの診断がくだらなかったことを考えていた。そして、「自分は活字では行間を読むのが得意だが、会話だとまっすぐに言葉をとらえすぎるから、そこに含みやメタな悪意が含まれていても気づけない」という自らの特性に気づく。これはとてもエポックな出来事で、君はからだぜんたいで興奮している。今まで、なにかかみ合わないなと思った経験や、お酒の席での喧嘩や事故のだいたいが、このことで説明できるなと思う。そう思えた特別な夜で、自分にとっての大きな転回点を迎えたのだ、ということを確信している。