武田俊

2018.7.2

「住所」としての自分のサイトをつくりました

これまで、そしてこれからの活動を記録するためのサイトを公開しました(このサイトです)。

日々生活していく中で、「個人の領域としてのサイト」を持ちたいと考えてきたのは2年くらい前から。仕事のジャンルが横断的になり、発表できるものはまとめておきたいなと思ったのがひとつ。そして、様々なプラットフォームが続々立ち上がる中、それらを利用しながらも、自分自身による文章は自分自身による場所で公開しておきたいな、と思ったのがもうひとつの理由になります。

もう少し、クライアントワークのケースをもとに具体的な話を加えましょう。

もう「住所」を持つことは必要ない

この数年、ぼくが編集者としてビジネスでメディア(Web・紙問わず)に関わる際に、クライアントから新規にドメインを取得して独自の「住所」にサービスを構築したいという意向を聞かされたなら、よほどの意義・意図がない限り「そんなことをする必要はない」と応えてきました。そのPJで達成したいことと、選ぼうと考えている手段のミスマッチは往々にして発生する。そこでぼくたちは、分散型メディアの事例について話したりしながら、様々な図表を制作しミーティングを重ねました。

多様なアカウントの使い分け、その担当者割り振り、予算計画、そこで打ち出し分けるコンテンツ(記事とか原稿なんて呼び方はしません。打ち出すものはテキストでないことも多々あります)種別について……etc。その上でコンテンツパブリッシング上のオリジンたる場が必要なら(運用も含め予算的にも見合うなら)設置してみましょう、と話してきました。

それが現状もっとも合理的で、もっとも冴えたやり方であるからです。
プラットフォームのトレンドが変化したら、また場を変え、分析し、そこに最適な形でのアプローチに移行すればよいのです。メディアを巡る潮目は今、常に変化しています。ゆえに情緒的な判断は却ってリスクとなる。至ってクールに分析し、決断するのが重要です。それが今、編集者としてビジネスでメディア(Web・紙問わず)に関わる際に必要なアティチュードです。

「情報は常に広がりたがっている」

しかし、そういったクールな判断自体はともかく、その判断に基づくテクニカルな手法の具体的な選択と実施について、果たして編集者自身が行うべきなのかという疑問が残ります。それは……グロースハッカーやWebディレクター、営業の役割なのではないか。今よく言われる言葉に従うのなら、コンテンツパブリッシングとディストリビューションは、(Webでも)分けてしかるべきなのではないか。

ぼくは色んな仕事の中で、優秀なグロースハッカーにたくさん出会ってきました。彼らはエンジニアと一緒に日々様々な解析ツールを試し、海外の先進的な事例に詳しく勤勉な人たちでした。そして、コンテンツを環境と時節に照らし合わせ、よりパフォーマティブな形にチューンナップすることにもっとも喜びを感じる、そういった感性の持ち主でした。

彼らは多々ぼくを助けてくれ、そして(これも多くのケースだといいのですが)ぼくも彼らの助けとなってきました。そうした形で仕事が相互補完的に機能するのは、つまるところ彼らとぼくの感性とスキルセットが異なるからでした。その両者間での絶え間ない対話がもっとも重要なはずで、それさえうまくいけば、後は常に「引っ越し先」を想定しながら最適化するのが吉です。ゆえに、オリジンたる「住所」は不必要と判断できました。

ある優秀な“影のグロースハッカー”とでも呼ぶべき友人が、「情報は常に広がりたがっている」と話してくれたことがあります。

これにはすぐに首肯させられました。情報は、人を媒介として、広がりたがっている。広がりたがる性質を持つ「彼ら」を最適に扱う手段というのが、つまり長々と上記で書いた、冴えたやり方なのでしょう。

ファーバーカステルの鉛筆と
コースターの裏

ただここで問題が生まれました。
そもそものところぼく個人は、広がりたがる情報たちを適切に管理すること「のみ」に、喜びを感じるタイプではなかったのです。
むしろその情報の中に、もはや情報とはいい得ないムードや、独特な流れをなんとか記述し、定着させる。そういう亜情報的な束をつくる。そのことによって、広がった情報の耐久性を高め、最大瞬間風速に殺されることなく、いつかどこかで出会えるかもしれない誰か、そういうまだ見ぬ他者の感情にそっと手向けるようなことはできないか、といったことを考えて実装させようと試みるのが、本来のぼくの得意とするというか、うれしいなと思うやり方です。

とはいえ、情報を扱うのなら、プラットフォームにその形を最適化させなくてはお話にならない。なぜなら、それは情報が情報足り得るところの広がりたがる特性を、活かせていないからです。それを活かすのが、冴えたやり方です。

じゃあ、ビジネスはともかく、ぼくが自身で記す文章は、原稿は、情報なのか。

自分自身の文体で文章を書く時には「冴えたやり方」を採用する必要はないはずで、「うれしいなと思うやり方」を愚直に繰り返していいはずです。いや、そうすべきでしょう。いや、そうしなければならない。そうやってぐるぐるまわり道をして考えがここまでたどり着いたとき、頭の中に去来したのは「書きたいよなあ」という素朴な気持ちでした。それに気がついた時、ふいに鼻の奥がしびれ目頭が熱くなりました。いつかどこかで出会えるかもしれない誰か、を想像するという自分にとって最も大切なことから、もうずいぶん離れてしまっているような、そんな気分がしたのです。そして直後に、もうひとつ大切なことを思い出しました。いつかどこかで出会えるかもしれない誰か、というのは、本を読むことに魅了されはじめた頃の、幼いころのぼく自身でもあったのです。

そんな時、すてきな友人たちのことを思い出しました。
彼らは例えばデザイナーだったり、イラストレーターだったり、アートディレクターだったりしました。
彼らは素晴らしいクライアントワークをこなしながら、生活の中で自分自身の作品を自然につくって暮らしていました。
それは、売れたり売れなかったりしました。
ときには仕事で忙しく、作品づくりから遠ざかることもありましたが、そんなときも、おしゃべりをしている時、あるいは電車で座れた時などに、ぱっとクロッキーを取り出して数分足らずで人物デッサンを描いたりしました。
マルマンのクロッキーとファーバーカステルの鉛筆、という人もいれば、コースターの裏に企業がPRでつくったボールペンで、という人もいました。隣に座っていたぼくは、そのこだわりも、こだわりのなさも等しくすてきだと思いました。
彼らはただ、息をするように、スケッチをし、作品をつくっていたからです。
いや、少し違う。
彼らは、息をするためにスケッチをし、作品をつくっていたから、でした。

彼らはそれぞれこんな風にいいました。
「書けばいいじゃん」
「スケッチみたいな文章書けば?」
「習作をつくりなよ、習作を」
「きっと、楽しいよ。読ませて!」

こんなことを振り返りながら、さてぼくに必要なのは何かと考えました。
情報ではなく、スケッチを。流れるものではなく、立ち去った後にも遺るものを。
声高なストーリーではなく、ナラティブを。
必要なものの中で明らかなのは、プラットフォームではなく、ぼくの生活している「住所」でした。
そうして設置されたのがこのサイトです。

「ポートフォリオサイトをつくって、そこでなにか書けば?」
上の友人の中のひとりがいいました。
でも、美大出身ではないぼくにとって、ポートフォリオということばは、なじみのないものです。
なので、ここはライフログサイトと呼ぶことにしました。
ここにあるのは、労働と暮らしの中での、様々なできごとの集積です。
つまり、ぼくの生活の全体であり、その一部です。

大切にしたこと

まず何より、記録し書きたいと感じられるものにしたいと考えました。
そう考えたときに浮かぶのは、無地のノートとときたま使う万年筆のことでした。
その結果、メニューは自分自身による、書き文字で。
文字色は、ブルーブラックインクを模しながら、可読性を犠牲にしないようアジャストしました。

メニューについて

Aboutには、プロフィールを。末尾には、無駄に長い自筆年譜を用意する予定。
Newsは、そのときどきの活動のご報告を。
Textは、いわゆる読みもののページ。日記やコラムなどを載せていきます。当面は日々のジャーナルである「空中日記」を掲載予定。たまにコラムやエッセイなど書くかもしれません。
Worksは、これまで担当させていただいたお仕事のうち、発表可能なものを掲載していきます。「ああ、こんなこともしていたのね」などと言いながら、みていただくのがよいと思います。不定期で過去のものを含め、更新していきます(全然昔のものが追いついていない)。

さいごに

シンプルながらも、めんどうなぼくの注文に応えながらサイトを完成させてくれたのは、Webデザイナの齋藤健介くん。大学時代からの後輩で、KAI-YOU時代も一緒にがんばってくれました。本人は「自分のサイトをなんとかしなきゃ…」とのことで、最新の仕事は載っていないようですが、ぜひご覧ください。

では今後ともお願いします。がんばって生きています。