雑誌「精神看護2019年9月号」に「線は光――ぼくの輪郭を取り戻すために」というエッセイとして7Pに渡り記しました。イラストも寄せました。
これはひとつの、いびつでかけがえのない青春の物語です。
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最近、いろんな人と、25歳からの20代後半をどう過ごしたか話すことが多くありました。この時期というのは、青年が一人の男になっていくという意味で、最後の青春期だと思ってるのですが、ぼくはその期間、まるまるその病と過ごしてきました。いわば最後の青春は、あまねく闘病の過程でした。
幼少期から、感受性の豊か子どもだと言われてきました。
水たまりに映る風景に、葉の裏に隠れている虫たちに、偶然であった冒険小説に、人との交わりに、いちいちすべて感動し、その喜びを踊るようにしながら、両親に伝えたり、絵に描いたり、文章に記したりしてきました。
周囲はそんなぼくを歓迎してくれました。
「まあ、なんてすてきな絵なの!」
「ほんとうにこの子は感動やさんだねえ」
そんなふうにして、過ごした幼少期は、今でもきらきらとした時間として記憶されています。
おとなになって、25歳で仲間たちと会社を立ち上げました。
そのあたりから、自分の素朴な情緒は、社会の中で闘っていく中で、邪魔なものでしかないと感じてしまうことが増えました。いろいろな感情を大義のために押し殺して、それでも向かっていくぞ、清濁併せ呑んでいくぞ、それが大人としてかっこいいことなんだ。そう思い込ませて、がむしゃらにやってきた。
それが27歳の終わりに、突然身体が言うことを効かなくなりました。出社ができなくなり、自分でつくった会社を退社しました。そのあといろいろな物を失いました。
精神医療の領域では、全治という概念はほぼ使われません。使うのは寛解で、つまり完治はしません。そういう日々の中で、ぼくは狂っていった自分の輪郭を取り戻すようにして、過ごしました。自分の認知と社会とを結びつけるための方法を、少しずつ開拓できるようになりました。不可逆なこの日々こそを、愛そうと。
数え切れないほどの分断が社会を断ち切り続けている今、絶望的な気持ちになることが多いです。その中でぼくに、書き手としてできることがあるとしたら、それは生きている、という状態をつぶさに見つめて、そのギリギリの尊さのようなものを書くことなのかもしれません。人は成果によって生きるのではありません。じゃあぼくにとっては? と問うたとき、残るのは情緒と芸術とそれを語りあえる人々との、交わりである、と最近はそう思っています。
ほんとうにここまで書くのは、多くの恐れが伴いました。それでも描き切れたのは、障害やハンディ、総じてある種「弱さ」を、個性や能力として読み替え、当人がそれを実感できる社会を望んでいるからに他なりません。
……なにはともあれ、がんばって書いてみたので、ぜひ読んでください!ということです。カルチャー好きに気づいてもらいたくて、いろんなオマージュも散りばめてみました。
グラフィックレコーディングを医療現場で活かすための特集としても、とっても刺激的なものになっています。
最後に、担当編集の石川さんと、この特集を一緒につくった妻・清水淳子に感謝と愛をこめて!