武田俊

2021.4.12

空中日記 #44|誰も寝てはならぬ

3月29日(月)

オンプラ、ゲストはアオイくん。
いよいよ新しいアルバムが明後日発表で、その制作について話を聴いていく。指揮者のかれが声をテーマにアルバムを制作したのは、声こそが最強の楽器だって気づいたから。そう話してくれたのは前回ゆっくり会って喋ったときだから、それは年末のROTH BART BARONのパーシモンホールでもライブのあと、渋谷で飲んだときだったんだろう。

おわって、いつもなら飲みにいくけれど、アオイくんは朝が早いらしく半蔵門にホテルをとっているらしい。それで千鳥ヶ淵まで歩いていって、そこでお花見をすることにした。

アオイくんが買ってきてくれたビールをゆっくりと一本空けていくあいだに、夜も同時に明けていく。座ったベンチの向いた方向がきれいに真東で、だから目の前にうっそうとあるはずの皇居の向こうから少しずつ明るくなっていった。黒が紺になり、そこから紫へとうつろっていく間、ぼくたちはいつもと同じような、最近聞いてよかった音楽だとか、あるいはアルバム制作秘話だとか、そんな話を重ねていった。

3月30日(火)

千葉雅也さんのツイートをひさしぶりにちゃんと読んで、そうそうこういうふうにTwitterを使いたいんだよな、とまた何度目かにそう思う。それで日記の素みたいなツイートをしていた。

火曜日はできるだけオフ。そして映画の日。
そうぼんやり決めはじめていたけど、体力が足りず起きてネコメンタリーを見る。朝井まかてさんの回。老猫との最後の日々、そして別れ、そこに込めたテキスト。行間で猫が待っている、という描写と演出でぼろぼろ泣いてしまう。20年以上ともに過ごしてきた間柄が、うしなわれるのってどんな気分だろう。自分の一部がなくなったような、そんな感覚だろうか。

鍵っ子さんのストーリーズで、今日が世界双極性障害デーだと知りポスト。

自分の輪郭があいまいで、自分自身が欲していることを自分ではどうにもはっきり理解できないぼくにとって、まったく疑いなく正しく原動力になっていると実感できるのは、この自分の体験した病についてひとに語り、それを通して精神障害やメンタルヘルスにおける様々なスティグマを社会からできる限り減らすことに表現でもって貢献するだといえる。ぼんやりした時でも、鬱屈としている時でもこの感覚は失われなくって、だから信頼できるぼくの核になるエネルギー。

発達系女子とモラハラ男』読み、読み終えた。そうそう!と共感する点がたくさん。うちでやっていることも多かった。漫画も効果的で、認知特性の違いを認識し、その上で生活を設計するという運用のしかたを学べるよき本と思う。けれど、ワーディングの強さや少し粗暴にも思える表現もあり、乗り切れない部分もあった。そういう気持ち、しっかり書いておきたい。

3月31日(水)

朝、ウツ。
目が半分しか空かない状態でじゅんこの部屋に行って、今日発売のアオイくんのアルバムを聞く。三船くんとコラボレートした「Nessun dorma」をかけると、わずか1曲のあいだに気分がぶわっと変わる。曲のピークには、広い平原の雲間から一筋光が差し込んで、それが徐々に広がりあたりを金色に照らしはじめる、という光景が再生されて、気がついたら手を大きく広げて一緒に歌っていた。

それをじゅんこが横でスケッチしていた。

この間、わずか5分。ラピッドサイクラーのなせる技だなあと自分でも笑っちゃう。
5分前の苦しみはきれいになくなっていて、思い出せない。思い出せないから多分、なんとか生きていけているんだと思う。

昼、M.E.A.R.L.の定例会議。久々に対面で、RAILSIDEに集まった。

夜、柔術。

スパー5本やれる自力がついてきてうれしい。
試合を控えている紫帯のトレーナーの方とスパーをした時、まったく意図と違ったところに手が伸びてしまい、サミングしてしまう。ゆるっとした感触が指先に伝わって、すぐに悲鳴があがり、手を引っ込める。すぐサミングだと気づいて、全身から冷や汗が流れる。なんども謝る。幸い大したことはなかったようだけれど、格闘技につきまとうものだ、ということに改めて気がつかされた。

自分がけがをすることよりも、人にけがをさせてしまうことのほうがやっぱり当然恐ろしい……。

4月1日(木)

さよなら、エイプリルフール。嘘が真実に溶け込む今の世界では、もう君のことは楽しめなくなってしまったよ。

とポストしたら200個くらいファボがついた。これくらいの数のファボには、ほどよい思想的連帯を感じることができてよい。ヘルシー。500越えたくらいからクソリプが届きはじめる感覚がある。

オカヤイヅミさん『いいとしを』を読んだ。途中までWEB連載でちらちら読んでいた模様。生活の機微と、その中での発見にハッとさせられてしまう。バイクのシーンのダイナミックな作画と、「でも今欲しかったんだ」のセリフに、ちょっと泣いてしまった…・

新年度。キャンペーンネーム、タグライン、ステイトメントを制作したMOTION GALLERYの「PAY IT FORWARDキャンペーン」が開始されてぼくも告知をした。悪貨が良貨を駆逐してしまいがちなのが、ITスタートアップの悲哀。もっと悲哀なのは、規模の経済でしか勝ち抜けないように見えてしまうところ。リスクテイクして起業した目的って、経済的な勝利だったの? と問われたらかれらはどんな顔をするだろう。ミドルレンジというか、マスに向き合わなくても良質なサービス、コンテンツと、それを求めるユーザーとの循環する連帯のようなもので、ある経済圏が成立する、そういうオルタナティブを社会実装する感覚でのベンチャー経営がもっと増えてほしいし、そういう真の意味でのビジョナリーカンパニーには、ぼくの能力を余すことなく注ぎたい。世界そのものを変えるために、まず視界の中にある邪悪なものに、表現で立ち向かっていきたい。そういう気持ちでコピーを書いた気がする。

夜、柔術。

はじめて山中さんのクラスに。国内トップクラスの選手は、レクチャーもていねいで素晴らしかった。せっかくの時間なのに、先週日曜に痛めた左内転筋の、その痛みがいよいよ厳しくて、スパー1本で断念。英断と思う。

4月2日(金)

美容室でカット。
前回ハイライトがあまり機能しなかった気がするので、幅を太くし、かつ入れる青を明るくしてもらう。石川さんが
「青の明度と彩度を上げたかんじですね。写真と一緒ですね」
と言っていて、おもしろいなあと思う。化学。カラーの話をしている時、きらきらしている。
石川さん、ひょうっとしてカットよりカラーやトリートメントのケミストリーの方が好きなんじゃあないかしら?

夜。髙木みゆちゃんとごはん。季節の魚を食べにいく。
ファッションスナップで連載してた『きっと誰も好きじゃない。』を私家版として書籍にした、献本したいと言ってくれ、でもそれは申し訳がないから、かわりにぼくのつくった『空中日記2019』その他の冊子と交換しようということにした。

カウンターに座ると目の前に生簀がある。
そこにはまぐりとホウボウが2匹。おしゃべりをしながら、何度もホウボウの方を見てしまう。
コロナと生活と制作について。
お刺身盛り合わせは、サヨリ、天然ぶり、真鯛──あとしっかり思い出せない。
サヨリは春告魚、春告魚、と思いながら食べた。
2軒めにトラブルピーチでジャックソーダ。
カメラの話、写真の話、30代の女性について、仕事と生活と恋愛と。
つまり飲んだら話す一般的なこと、それをゆっくり話すことの根本的なおもしろさを思い出す。かつての暮らしでぼくたちは、こんなことを当たり前のように毎週のようにやっていて、それがぼくのある種仕事の一部でもあって。でも今くらいの頻度で、そのひとつひとつの会合をていねいにあじわって、話を聞き、繰り出すことのほうがなんだかよほど創作的なんじゃないかと思う。

情報から作品へ。これは2021年の個人的なテーマだ、と帰り道に自発的に思いが流れた。

4月3日(土)

久々にがっつりと人と会った反動か、ねていた。
野球、モンハン、読書。
やってみたくなるオープンダイアローグ』を読んだ。これまでオープンダイアローグの関連書は数冊読んできたけど、治療に悩む当事者やその支援者は、これを読んでトライしてみるのとてもよさそう。斎藤環さんのパーソナルなエピソードもとてもよかった。

4月4日(日)

ぼくはエントリーしていない柔術の大会が墨田区体育館で行われている。
もともとは応援に行こうと思っていたけれど、サイトを見てみると観戦者は入場できないと書いてあり断念。けれど参加者がかわるがわる、同じジムの人たちの成績についてLINEグループに報告をしてくれて、それが気になってなかなか他のことができない。

白帯、青帯の先輩たちが大健闘していて、中には自分の階級だけでなオープンでも優勝したひとまで! いつも親身に教えてくれる久保田さんが優勝した、というテキストと写真を見たら、つつーっと涙が流れてきて、え、だってまだジム入って3ヶ月とかで、知り合ったばかりなのになんでこんなに胸が締め付けられるように感動しているんだろうって自分でも思う。

ずっと趣味というものを嫌ってきて、20代の半ばくらいまでは「死んでも趣味人になんかならない」って公言していたのに、今は趣味のために生きているような感じがする。それはあからさまに「ネコメンタリー」の保坂和志の回の影響で、ぼくたちはきっと社会との関わりを仕事によってつくり、趣味によって世界との関わりを整える。そしてその、世界の美しさや野蛮さを、趣味というスコープによってはじめて観察可能になる。

この柔術という新しいスコープは、どうやらぼくにとってこれまで知らなかった世界の美しさを、あんまりにも精細に伝えてくれるみたいだ。結果がひとつひとつLINEで届けられるたびに、ぼくは行ったことのない墨田区体育館の観覧席に舞い戻る。行ったことがないけれど、その場所に舞い戻る。それで表彰台の上に立って、はにかみながら写真に映るかれらの姿をみて、もう握力がなく細かく震えるピースサインや、絞ったら水たまりができてしまうほどぐっしょりと汗を吸った重たい道着、そういうものが見えてきて、それでまた涙がすーっと落ちる。

試合に出たいなって思う。それで感動している。
それは単に久保田さんの頑張りに溶け込んで同時に感動しているだけではなく、これまでずっと一ファンとして観戦してきた広義の格闘技の体系の中に、自分がとうとう足を踏み入れるということ自体への感動のようだった。末端ではありながら、でも確実にその系の歴史に介入するということ。それ自体への感動のようだった。

夜、連絡をとりあって出。3杯だけよい酒を交わしながらいろんな話をする。
先が見えない中でもプランを立てながらストラグルする人こそを、ぼくはかっこいいと思いますよ。それは拘泥なんてこととは違うと思いますよ。
そんなふうに思っていることを伝えた。
何でも日記に書きたいと思うけれど、この時間は秘匿しておきたいと思った。
閉じられた空間で交わされる、フラジャイルな会話から親密さっていうものは生成されて、実はそれが世の中を様々なものをポジティブに駆動させているということ。その静かな事実を愛したい夜だった。