武田俊

2024.2.26

空中日記 #114|新型クラウンの多い町

1月8日(月)

日記を書いていると、書いているそばからその日あったことを思い出し、思い出した以上それを書かねば存在しなかったことになるような気がして、それを記すと、パン生地をこねるみたいにどんどんのびる。のびて長くなること自体、悪いことではないのだけれど、そもそも有限な時間が今の自分にとっては、さらに細切れの有限性が高くなっているわけで、これでは書きたいものに到達できない。読者としての理想の日記は、情緒とか全然なくて、ただ出来事と風景の羅列みたいなそれで、それをやればいいのだけど、自分のスタイルとはかけ離れているのか、なかなかそこに到達できない。

1ヶ月くらい深夜のイオの担当をやっていて、それはじゅんちゃんが典型的な朝型で、ぼくがどちらにもなれるタイプだからという判断だったのだけど、夜眠れないことが続いてきた。といっても、昼ほどやらなければいけないタスクの数が多いわけではないから、ピヨログ上の記録は昼よりシンプルになるわけで、つまり夜の厳しさは可視化されない。その見かけ上の印象を払拭したいと思っているのか、日常会話の中で「昨日の夜は実は全然寝てくれなかった」とか「夜ってほんと大変で」みたいな発言が増えていて、これはまずいよなと思いながらも止めることが難しくなっていた。

それで昼食の用意をしながらじゅんちゃんに「ちょっと最近調子悪いまんまだわあ」とちょっと泣きつくようなトーンで話してみると「ふーん。産後うつじゃね?」と吐き捨てるようにいわれ、カチーンとなり、しかしここで本気で声を荒げてろくなことにならなかった数年を身体が覚えているので、ひどい!えいっ! とコミカルな声色で(けれど心に怒りをともして)じゃれるように、おしりと太ももの間くらいを手のひらでぺしぺしした。じゅんちゃんは「うるさい」といった。

午後になって「散歩に行ってみよ。ふたりならカフェでお茶できるかもよ」と誘ってもらい、機嫌が直る。こういう提起はいつもぼくがすることなので、たまに逆の流れがあるとそれだけで楽しい。カフェでは、隣に6年生くらいの女の子がひとりでいて、耳元から襟足にかけてライトブルーのハイライトが効いたポイントカラーをしていて、何か文庫本を読んでいてかっこよかった。そのまま最寄りの独立系の書店へ。花井くんの本と、宮本常一の黒鳥社が出してる本を買う。黒鳥社、トランスビュー配本だった。夜、買ってきたスープで水炊き。手抜きでも野菜とたんぱく質がたくさん食べられることが大事。

1月9日(火)

朝担当のやること。6時に交代して、おむつ交換とミルク。そのあとメリーでちょっと一人で遊んでもらってる間に、ゴミ出し、掃除機、洗濯。それらの合間、もしくは終わったと後に自分の食事を用意して、そうしてるともう2時間は経過しているので、次のミルクとおむつ。最近は日中寝ないので(けれどご機嫌)、一緒に遊んだりあやしたりする。そうこうしていると、もうお昼近くでじゅんちゃんが起きてくるので、バトンタッチして昼食の用意をする。これが最近の基本パターン。

大事なのは、いったんスタートすると手が足りなくなるので、あらかじめ自分のためにも音楽を用意しておくこと。今日はふと思い出して、mumを聞いてみた。大学生のころによく聞いていたアイスランドのバンド。ゼロ年代、ヒップホップはほとんど聞いていなくって、ぼくにとってはポストロックとエレクトロニカの時代だった。やはり冬、聞いてみたくなる。それで聞いていると同時代に一緒に聞いていたものや風景やムードをどんどん思い出して、懐かしくなる。Immannu Elとかsgt.とかRegaとかExplosion In The Skyなど思い出し、かけながらストーリーズに放流していく。

イオは黄色の服がいちばん似合う。それを着ているときは、たまごやきちゃんと呼んでいる。

1月10日(水)

年末に実家から送られてきた小包には、なぜか毎年叔母がクリスマスにくれるラベイユの蜂蜜の他に、まことやとスガキヤ2種の味噌煮込みうどんのキットが入っていた。まことやのものは出汁パックそれ自体が入っていて、かなりお店の味に近かった。今日試したスガキヤのものはかなりマイルド。八丁味噌のちょっとしたえぐみや苦みが一切なくて、あの奥深さをなくして標準化するとこういう味になるのかと逆に発見のようなものをする。

午後、ららぽーとの中のアカチャンホンポに行ってみようということになり、車を出す。いつかやってみたかったこと、の、実績解除。アカチャンホンポって頭の中では漢字で変換されるけど、実際は全部カタカナなのがちょっと気持ちが悪いな。平日はがらがらで、だだっぴろい人工的な空間に人が少ないというその風景が、どこかディストピア的で気に入る。平日のディストピアは駐車場が終日無料なのもよい。店内にいるのは、ぼくらと同じような平日を休みとできるような子連れの夫婦、老人、学校帰りの高校生カップルやグループ。カップルたち、赤ちゃん連れの夫婦が多い空間でデートすることに、何かプレッシャーを感じたりしないかしら、とふと思う。ぼくが高校生だったなら、「これは──赤ちゃんに対して好意的に振る舞ったりするべきだな、そういう試練だな」とか思っていたと思う。

じゅんちゃんと、もう理由をうまく思い出せない、ちょっとしたいらだちを含んだ言い合いをしてしまう。クレープを食べてみようと思って、ぼくはクレープというもの自体をろくに食べたことがなく、ハーシーのチョコレートの何か、というのを頼んだら、とても食べにくい代物だった。食べにくいファストフードって、矛盾している気がして苦手だ。『はらぺこあおむし』の柄のベビー服だけ買って帰宅。作者の名前を思い出せなくて、「ダニエル・カール?」と思ったら、ほんものはエリック・カールだった。

1月11日(木)

妊娠・出産、子育てにあたって買ってみた本でいちばんよかったのが朝日新聞出版の『この1冊であんしん はじめての育児事典』。そのショートコラムページに「メディアに子守りをさせないで」というのがあって読む。両手が空いて楽だからといって、テレビやiPadなどに頼りすぎないで、というまあそうだよね、という読み物なのだけど、「え、あなたのこの本もメディアなのですが?」という意地の悪いことを思ってしまう。メディア、っていわれた時の一般の人のイメージ、恐らくその種別や規模ではなく、デジタルのもの、ということになっている気がする。

1月12日(金)

気になっていた人文書を買おうと思って、念のためじゅんちゃんに持っているかを聞くと大抵すでに購入していて危ない。もはや彼女の方が人文書をたくさん所蔵していて、逆転していた。最近ぼくは小説ばかり読んでいる。東京大学出版の「知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承」は全9巻のシリーズで、彼女の棚に9巻の『アフォーダンス:そのルーツと最前線』があった。著者は河野哲也、田中彰吾。それを寝る前、眠くなれるようひらいてみたらめっぽうおもしろく全然眠れなくてこまった。で、調べて、これが全9巻のシリーズだと知った。

1巻は岡田美智男による『ロボット:共生に向けたインタラクション』だし、熊谷晋一郎の『排除:個人化しない暴力へのアプローチ』というのもある。中でも、6巻の『メディアとしての身体:世界/他者と交流するためのインターフェース』はタイトルだけで確実に今自分が必要としている本であることは自明で、持っているか尋ねるとこれがシリーズだっていうことを理解してなくって、こういうパターンもあるというわけか、と思いながら買った。

1月13日(土)

3ヶ月に1度の定期健診の日で名古屋へ。通い始めてもう9年になるということにびっくり。当初は投薬の都合上、毎月地元に帰っていたので、もう東海道新幹線に乗るのは飽きているから、最近は車で帰っている。はじめての時は楽しかった。高速道路の、桃鉄みたいな日本列島がパノラマ地図になっていて、全国すべてのSA・PAが乗っているじゃばらにひらく最高な地図を広げて、どこのSAで休憩しようか、と考えながら、実際に走ってみると目当ての駿河湾沼津や浜松のSAは混んでて止まれず、なんでもないとこで止まるのも楽しかった。

けど、それも慣れてしまって、今はまっすぐ走り、トイレに寄りたくなったらその段階での近くのSAに入ることにしている。その度に、平出隆がたしか『ウィリアム・ブレイクのバット』で書いていた「絶対初心者」のことを思い出す。初心者が感じることのできる、ときめきと畏れ、それを慣れた今でも持っていたいと、あらゆることに習熟しはじめるたびに思う。

この2ヶ月の慢性的な睡眠不足の状態での4時間弱の運転は、思っていたよりも脳が疲れて、実家にもどるとへとへとだった。主治医に子どもが生まれてから希死念慮がほとんどなくなったことを伝えると、いつもより目尻を下げて話してくれた。午後、姪っ子ズ来襲。いつもぼこぼこにされるので部屋に逃げ込もうと思うも、やっぱり少しは一緒に遊びたくて、遊ぶ。ワンダーやろう、というので、何かと思ったら新しいマリオだった。ふたりともコントローラーを上手にあやつる。ポケモンに詳しくて、どうやらアニメから入って図鑑を読んだりしているようで、ぼくのSwitchをクレードルにつけて、スカーレットをプレイした。

1月14日(日)

久々にアラームをかけないで眠った。それでも7時に目が覚めた。昼、母と若鯱屋に行き、カレーうどんとミニ味噌かつ丼のセット。懐かしいなと思ったが、若鯱屋になんて昔から全然行ってないのでこういう時の感覚はあてにならない。というか、自分自身というより、色んな人の集合としての懐かしさをカレーうどんを触媒にして体験している感じ。おまけみたいな味噌かつ丼の味噌が、ちゃんと名古屋ハードコア味噌だれのそれでうれしい。

スタバで作業をしようと思って、丘を上がっていく。都内だったらそれなりの豪邸、という規模感の戸建ての分譲エリアが広がっていて、けれどここは一等地ではないので恐らく住んでいるのは、アッパーミドルくらいのクラスだろう。駐車場にはだいたい2~3台車が駐められるようになっていて、そのうちの1台はだいたいレクサス。これぞ名古屋だ!と思っておもしろくなって、写真を撮って五十嵐さんに送る。

他にも、そのデザインから賛否両論となっていた新型クラウンも都内よりはるかに見かけた。SUVみたいなぼってりとしたクラウンが、ここでは比較的受け入れられているらしい。クラウンという車種にまつわる保守的なイデオロギーと、最新型のSUVという新しいモノ好きが惹かれる要素。このふたつのかけ算って、なんて名古屋っぽいんだろうと思う。ふと、10代のころこの町のそんな価値観が大嫌いだったけど、今はちょっとおもしろく感じていることに気づいた。いじわるな気分じゃなく、まっすぐにおもしろい。

スタバはとても混んでいる。何人か、退勤後のスタッフがそのまま客として利用し、フラペチーノとかを飲んでいるのが目につく。この光景、この店舗で良く見るけれど、都内では見たことない。気になる。

夜、じゅんちゃんに所望されていた赤ちゃん時代の写真をiPhoneで撮影する。テレシネみたいな作業。イオとぼくは目尻が似ているようだ。