武田俊

2024.6.7

空中日記 #124|りっぱな男だ、ほれぼれ

4月1日(月)

イオさん入園式。いそいそと朝準備をしながら、自分の全身の感度が高くなりすぎていることには自分でも気がついていて、問題はその調整を自分でかけられないということだった。起きてくるのがおそいじゅんちゃんにいらつき、どすどすという足音にいらつき、それをなんとか振り切るつもりでイオのお世話と準備を進めていると、彼女が昨日着替えさせていたのが黒白ボーダーの下着の上に、イエローと白のボーダーの上着という装いでその組み合わせにいらついた。それでことばが荒くなって、そのこと自体に自分で落ち込む。

「あーなんかはじまってるわあ。緊張してるねえ」とは、後からのじゅんちゃん談で、そのことばで自分が緊張していたことを知った。はじめての場所とイベントで、頭の中でそのはじまりから終わりまでの段取りを想像できないと、緊張する。だから行ったことのない場所やお店は事前に画像検索する。保育園については一度面談で行っているけれど、ぼくの知っているのは廊下と入り口から一番手前の0歳児クラスだけで、奥の構造については感知していなかった。そのことだけで、感度が高くなりすぎるようだった。

園についてベビーカーを畳んでしまう。しまう場所は調べていたから知っている。奥の部屋にゴザが敷いてあって、小さな園だが両親が来るとそれなりの人数になるわけで、みんなみっちり座る。父親とおぼしき男たちの多くはスーツだった。母親たちはパンツスーツが多かった。大きな子どもたちも式典ぽい服装をしている。0歳児なら普段通りだろうと思ったがそれっぽいものを着させられていて、イオちゃんだけが黄色のいつもどおりの服で肩身が狭いようなおもしろいような気持ち。

園児紹介タイムというのがあって、名前を呼ばれたら返事をし、すきな遊びを紹介するというものがはじまった。0歳児は親がはーいといって、そのあとに「音楽を聴くのが好き」とか「ダンスが好き」、もう少し大きな男の子は「電車を見るのが好き」そんなふうに続いていく。イオはまだ自分ひとりで遊んだりはできないし、彼女自身が何を好んでいるのかはっきりとわからない部分が多い。じゅんちゃんが「おまかせするね」といい、イオの名前が呼ばれたとき、ぼくは大きな声ではーいといいながらライオンキングでシンバが生まれたときのようにイオちゃんを抱えあげ、たからかに「顔の前でタオルを振ってもらうのが好きでーす」とこたえた。

午後、フリーの時間。じゅんちゃんが10年メモを買ってきて、イオの入園式のこの4月1日からはじめるのだというのをうらやましく思い、買ったという店舗に行ってみるも好みの色がない。Webで買えばいいやと思ったがすでに在庫はなく、もう一店舗近場にあったので電話をして在庫確認をして買った。昔の買い物のしかたみたいで、それがじんわりと心地がよい。

夜、10年メモをふたりでつける。じゅんちゃんは横長の記入エリアをタイムラインに見立てて、時系列でしたことをイラストと一緒にひとこと沿えて書いていた。ぼくはどうしようか。日記のしたごしらえのように、食べたものを左側に書き、行動の記録を時系列でテキストで書くことにする。字だけのInstagramストーリーズに見えてきた。

4月2日(火)

今日からみなし保育。9時に預けて10時半におむかえにゆく。これもはじめてのことだから緊張しているのがわかった。何がその原因かといえば、効率よく預け、おむつなどの消耗品を補充する運用がまだ頭の中で検討できていないからで、こういうものはやりながらPDCAを回してゆく、というのが鉄則というか、それ以上に方法はない、ということ自体は理解しているものの、なんでも頭の中で描けないと不安になるようで、年を重ねるごとにこの傾向は強まっているような気がする。

らっこ組のみんなはだいたいすでに来ていて、抱っこされたり、自らおもちゃを手に取ったりして過ごしていた。10月末うまれのイオはいちばん小さいので、まだ仰向けに寝てほけーっとしかできない。かわいい。最近1日100回くらい、かわいいと無言で唱えている。

その足でタリーズに。本日のコーヒーと、ハニーウォールナットドーナッツ。くるみ、ウォールナットと呼べば、それだけで何かとくべつな気持ちになる。『フラナリー・オコナー全短編』の上巻から、ひとつ読んで、書く。一瞬で時間が溶けてお迎えに。イオはつられ泣きをしちゃったらしい。かわいい。
だっこひものまま駅ビルで買いもの。エレベーターに乗るとおばあさんが話しかけてくる。
「まあ、かわいいわねえ」
「ありがとうございますぅ」
そのままにこにこイオを眺めていたおばあさんの視線が少しずつ下にさがっていく。そして「あら、はだしなのね。寒くないのかしら。でも、そうねあたたかくなってきたものね」といった。それで保育園の玄関のくつしたケースにくつしたを入れたままだったことを思い出し、戻る。まだアクションが点で線になってないから、こういうふうに漏れるのだろう。

くつしたミッションを終えて旧街道沿いを歩いていくと、ふわっと水分をたたえた風が吹いた。春だ、そう思ったら、今人生が前に進んでいる、そのこと自体が祝福されている、と全身を唐突に多幸感が貫いた。これをじゅんちゃんに分けたい。目の前には、いつか入りたいなと思っていた、昔からやっていそうな、けれど老舗的な厳かな構えではなく、あくまで町のおかしやです、といった趣の和菓子屋さんがあった。すでに3人くらいおじいさんとおばあさんが並んでいて、そのうしろにつく。おこわやおいなりさんもあって、これはまた今度。桜もちとみたらしを2本ずつで420円。

昼、袋入りの担々麺があって、でも肉味噌を自作する手間はかけたくなくて、それならやめようかと思ったけれど、冷凍庫に餃子があるのを思い出して3コ入れた。ひき肉の仲間、ということで解決、とさせたらしかった。

午後、自由を得て、どうしても釣りがしたくって1年以上ぶりに管理釣り場に行ってみる。ルアーを投げて、考え、変えて、また投げて、ということの繰り返しは楽しくもあるが、やっぱり渓流に行きたい。この資本主義の墓場みたいな釣りは、どうしても心から楽しめるものではもうなくなっていた。帰りにスーパー銭湯に寄る。行ってみたかった場所で、入ると思っていたよりもずっと、ちゃんと温泉で、内装も旅情が感じられる雰囲気にしていて、950円でこれを得られるのは大きいなと思う。サウナ3セット、水風呂は16℃。食事もしてゆくつもりだったが、家族連れで満席だったので、近くのコメダに。ハンバーグのスパゲティみたいな高校生の食べものを頼んで、たっぷりブレンドでこれを書いている。

4月5日(金)

イオのめんどうを今日はじゅんちゃんが見てくれる。夜の予定まで存分に創作をするぞと主いうも、体ぜんたいに疲労が溜まっていてできない。これはいつものこと。落ち込まない。異様におなかが空いて、玄米に切ったチャーシューを乗せたのをこしらえて食べるも足りず、コンビニに行く。ふたりぶんの朝食として、ハムのとチキンのサンドイッチふたつ、いちごのワッフルを買う。それをわけて食べ、コーヒーをいれて部屋にうつりふとんの中で増田俊成『七帝柔道記Ⅱ』をさいごまで読む。やっぱり異形の青春っておもしろい。散文にひつようなのは、ある種の冗長性。

いまよしさんのストーリーズで、こびさんの訃報を知る。もう早すぎる訃報はこりごりだと思っていたのに。かなしみに引っ張られる力を、とどめてこらえる。しかし、ほんとうに人は死んでしまう。ぼくの時間も全然ないのかもしれない。もっと真剣に、命を燃やすようにして生きなければいけない。そう思うと、燃やしすぎるたちなので、そのあいだ、ほどほどに充実させて生きてゆく、ということはほんとうに難しいものだ。

16時に出てカフェで連絡を返したりなどして、吉祥寺に『ミルクの中のイワナ』の舞台挨拶へ。今日から劇場公開なのだった。アップリンクに着くとあさとくんと近藤さんが話していて、ごあいさつ。久々にあさとくんと色々としゃべる。ほぼ満席だったので、上映時間分、ゆっくりとおしゃべりができた。舞台挨拶ギリギリになってゆうたろうが到着したので、カメラの用意を一緒にする。あさとくん、場数を踏んでトークの練度が上がっている。最後にありなちゃんのことを話した。この映画に関連した公の場で、たぶんはじめてここまで話したと思う。胸がしめつけられるようになりながら聞いた。しかし、りっぱな男だ、ほれぼれ。

サイン会のあいだに、浅井さんとありなちゃんのおとうさんに挨拶をする。心の奥のほうで色んな気分がぐるぐるとかきまぜられていくのを、知らないふりをした。これはあとであたためればよいもの。すべてが終わって、あさとくん、清水くん、ゆうたろうと一緒に出。みんなでごはんに行く流れになるも、明日朝一で名古屋なのと、血糖値の検査のため21時以降断食なので、お店の前まで一緒にゆく。あさとくんおなじみの天壺というお店。到着すると満席で、店主としゃべっている。「事前に電話したら断られる思て、そのままきましたわあ」といっていて、。全部たねあかしをするスタイル。おいしそうなお店でうらやましい気分で帰路。

4月6日(土)

朝5時に出。血糖値を測らなくてはいけないので、なにも食べず運転する。この時間なので速度はある程度出てしまうし、いつも通り新東名はすきすきだろうと思って油断しながら御殿場あたりまできたときに、覆面の存在に気づき速度を戻す。数台まわりに気がついた車があって、無言で、ね、こんな時間なのにね、と語り合うようなきぶん。まったく気づかないセダンが150キロくらいで追い越し車線を抜けていって、すぐサイレンを鳴らされていた。

定期健診前に薬局で血糖値をはかり、正常値のデータを持ってクリニックへ。先生に映画のこと、子育てがはじまってから希死念慮がほぼないこと、など報告。顔をくずしてよろこんでくれ、それが思っているよりも気恥ずかしい。いちばんひどい時期のことを深く知られている相手だからだろうか。すぐすんで外に出ると暑い。半袖のTシャツでいいくらいで、スタバで今年最初のアイスのアメリカーノとバゲットのサンドイッチで『富士日記』。ちょくちょく出てくる【ふかしパン】と【豚のつけ焼き】が気になる。

まず多田ちゃんのスタジオへ。20分ちょっとでついてしまう。長久手を走っている間は、道路もきれいだし町並みもすっきりとしていて心地がいいのに、瀬戸市に入るとサグみがましてこれが瀬戸だったわ、と思い出すような感じ。ピックしてたかくらの待つ名古屋駅へ。名古屋の首都高みたいなのに乗って、黄金ってところで降りる。

行ってみたいっていうゲーセン〈ゲームボックスQ3〉ってとこに歩いていくと、団地のようなマンションの1Fでそのテナントのあり方に不穏さを感じる。開店は14時からで、台湾まぜそばのお店でおひる。台湾にはないよね、という話から、それぞれの台湾旅行でどんなものを食べて、どこがおもしろかったかを話していると、となりの席の朴訥とした感じの男のひとが「台湾行ったことあるですか?」と話しかけてくる。どうやら台湾の方で聞けば台北出身とのこと。台湾には台湾まぜそばはない、という話をしていたら、隣で台北のひとが食べていた、しかも名古屋でというおもしろさ。コメダに移って、ずっとゲームとたまに美術についておしゃべり。たまにしか会えない友だちとは、永遠にしゃべれるのだ、ということを思い出す。

〈Q3〉が空いて中に入ると、筐体がどれも真っ暗で、え、と思うと、徐々にひとつずつ電気が灯っていく。うすぐらく、うっそうとしていて、音がでかめで、今では吸えないだろうけど、昔は誰しもが煙草を吸っていたような場所。これぞゲーセン。プライズ系とメダルゲーが中心の明るい蛍光灯ばかりの現代のものは、ゲーセンではなくゲームコーナーでしかない。50円玉に両替して思い思いのものをプレイする。多田ちゃんはギルティの昔のをやっていて、ぼくは同じ列にあったネオジオのロボットが野球するゲームをやってみる。1イニングごとに課金が必要ということがわかり、拍子抜けして場所を替えて、雷電をやった。たかくらは、いろんなものをちょこちょこ。

1時間くらいしてスタジオに。たかくらが持ってきたレトロなんとかっていう、色んなゲームのデータを吸いあげてプレイできるもので、なつかしいゲーム、知らないゲームをしながらひたすらおしゃべりしていく。『川のぬしづり2』がやっぱり盛り上がり、あらためてプレイしてみて、このゲームのできの良さに驚いた。川面のゆらぎのグラフィックや、釣りモードに移行したときのミニマルな音声による「集中」の表現、魚とのファイトの繊細さ、それらにデータを充てているからだろうめちゃくちゃ簡素な人物の表現、などにぐっと来まくる。steamでプレイできたらずっとやるだろうに、それができないのはふびんだ。22時くらいまでひたすら遊んで、車で実家へ。長時間の運転とゲームで頭の芯の部分がぐらぐらとしていて、これは小学校のときに多田ちゃんの家に遊びに行って、怒られないのをいいことにずっとゲームをしていた時の帰り道の頭痛と同じ種類のやつだと気づく。

 

4月7日(日)

朝8時出、途中かなり眠くなってあやうかった。慣れてしまった道はときめきが減退して、旅が移動になってしまうのがおしい。いつも初めての新鮮さを、absolute bigginerを「絶対初心者」を忘れたくないっていっつも思う。休憩挟んだり混んだりで、12時にいつものICについて、新しくできていたラーメン屋さんに行ってみたらオペレーションがぐだっていて、その不穏さが全席に伝わっていたのでもうリピートしない。イオ、はじめての発熱。一時38.9℃まで上がっていたらしいが、37℃くらいまで落ち着いて、いったん様子見。

15時、ひろたさんと国立で待ち合わせ。一橋に向かうメインストリートの桜がとてもきれいで、たくさんの人でごった返している。こういう時の桜は好きではないので、写真も撮らないで素通り。待ち合わせの増田書店で、興奮しながらふたりで回る。町の書店なのに、1階の入ってすぐのメインの棚が人文書と詩集で埋まっていることの、恍惚!『松浦寿輝全詩集』がそこにあり、「ここに、これ!?」とふたりで大騒ぎする。ここで何を買うべきか迷って、結局森田真生『偶然の散歩』に決める。

ロージナ茶房で、ひたすらおしゃべりする。途中で、イオへの贈りものとして、ドイツのすてきな木製のわんちゃんのおもちゃをもらう。カラフルな犬で、ハイハイしながら追いかけるらしい。その犬が、この世界ってなんて楽しいんだろう! といういい顔をしている。

最初コーヒーでしゃべり、夕方になってお腹が空いてビーフドリアとペスカトーレをとってそれをシェアしてしゃべっていたら、4時間半が経過していて、それでもまだしゃべることができそうで、そのことに2人で笑った。ゼロ年代の批評シーンのはなしからはじまって、そのときひろたさんが書こうとしていた「伏線」についてのテクストのはなしになり、同時代にそれぞれ何をしていたをはなし、それがどこかからか贈与経済のおもしろさと微妙さ、「贈与の一撃」は結局一撃であって、リターンを充てにしているから乗り切れない、それで今は「感謝」の時代なのではないか、となり、現在のそれぞれの感じるすべての関心事と社会課題は「感謝」によって解ける、という感覚が全身を支配して、何を話しても結局「感謝」の必要性につながっていくのがおもしろすぎて、ずっと「感謝」を頻発するものだから、他のテーブルからはどう思われてるんでしょうね、なんていって笑った。

すべて「感謝」につなげてそのターンの会話を切ることをひろたさんは「感謝〆」といっていて、それにも笑った。格闘技とタロットと易のはなしもした。フルコースをいただいたような、たいへんな満足感と一緒に、もっと話したいという渇望もまたたしかにあった。

帰宅して興奮しながら「感謝」のおもしろさをじゅんちゃんに話すと「わたしはひろたさんのいうこと、すっごくわかる。昔から『感謝思考』だから」というので、感謝について語ってもらったらあまりにおもしろいので、それを自動起こししたテキストをひろたさんに送ったら、また盛り上がって、メッセも途切れず、この2日間はひたすらしゃべっていた日だった。しあわせだった。じゅんちゃん、贈りものの犬の顔を見て「しゅんくんはいつもこういう顔をしている」とうれしそうにいう。