武田俊

2024.4.11

空中日記 #119|作品は創造の副産物にすぎない

2月26日(月)

晴れ 12℃ 4℃

眠れず4時にイオのおむつとミルクをやってからうとうとし、7時頃起きてきたじゅんちゃんと交代して11時くらいまで眠る。じゅんちゃんの地元の友達がやってくるという日なので、半日外で作業することにする。ラーメン食べて、カフェ。日記その他もろもろ進めて、途中で自治体のやっているフリースペースみたいなところに河岸を変える。

作業のあいまでちょこちょこ『さびしさについて』を読んでいく。植本さんの感じるさびしさには自分も近しいものを抱えている感じがするし、それが創作の動力源になっている気もする。滝口さんの子育てと家事と生活の感覚については、まさに今から自分がそうなろうとしていたケースにとても近く、また異性の子を持つ感覚についてもすごく近しいものを感じる。そのふたりのたんたんと、丁寧でやさしいやりとりが心地よく、読み終わりたくない。往復書簡の本でこういう読後感を得たのははじめてのこと。

サンドイッチ屋さんでツナと卵のものを買って、帰宅してじゅんちゃんとわける。よるごはんは残りのカワハギでちり鍋みたいにする。たくさんの骨があるのでそれで昆布と一緒に出汁をとると、とても芳醇でおいしい。魚の鍋はあっさりしていても、しっかりとおいしいところだ。

何事にも依存しやすいのは、おそらくあらゆる刺激に対して敏感で、それはつまりある刺激に対して脳内の快楽物質が多く分泌されるっていうことなんだろう。だからこそ依存しやすいわけで、煙草もお酒もやめたけれど、いまぼくはきっと『UFC5』に依存している。

やりたいゲームはたくさんあって、それは新しいインタラクションの経験や、物語体験をしたいからなのだけど、つかのまの自由時間にPS5を立ち上げると、手が自動的に『UFC5』を選び、ひたすらオンラインマッチをし続けてしまう。選手の動きと効果音と演出、そしてプレイヤーの数だけ乱数があって、その組み合わせに脳が麻痺していくのだと思う。それが純粋なストレス解消になっているならまだしも、むしろストレスを溜めるようなことも相手によってはあるわけで、まったくヘルシーじゃない。

キッチンで晩ご飯の用意をしながら、どうしようとじゅんちゃんに話すと、学生が宇多田ヒカルのこんな言葉をアップしてたよ、とiPhoneの画面を見せてくる。

自分のことがよく分からなくなったり、人生に悩んでもやもやした気持ちが溜まることもあるだろう。そんな行き場のない不安やストレスを、遊びまくったり酒飲みまくったり、女遊びしたり、カラオケ歌いまくったり、バッティングセンターで発散するのもいいけど、それらはその場しのぎの逃避でしかない。いくら体が疲れても何か疑問が残んない?もやもやを振り払うたった一つの方法が、例えば、歌を創る文章を書く、写真を撮る、絵を描く、といった創作活動なんじゃないか。それもまた逃避のひとつであるけど、やみくもにエネルギーを無駄遣いするとは大きく違う。創作行為って不思議。ただのストレス発散とは違って、内なるプロセスなのに自分とは別の形あるものが残る。なにかを残すために創造するんじゃない。作品は創造の副産物にすぎない。

宇多田ヒカル/点と線より(赤い本の絵文字)

見せてくれたのはこんなテキストで、おそらくその学生が自分で打ったのか、iPhoneのメモのような見た目で改行がなくて地続き。最後に赤い本の絵文字が打ってあった。この「点と線」というのがなにかわからないけれど、メモの地続きのテキストとして読めたことがまたよくて、日記を書いてる今、「作品は創造の副産物にすぎない」のくだりを写していて、目が少し潤んだ。

2月28日(水)

夜、うすいさんとTwitterスペースで『夜明けのすべて』の感想戦をやった。ぼくは試写入れて2回目、うすいさんは1回だったのだが、彼の目の良さにびっくりする。自転車の重なりや、細かいカットや点描をわずか1回の鑑賞で見つけていた。しかも自分の中で鑑賞のロジックをしっかりと立てられていて、このスペースのおしゃべりで終えるのはもったいないので、何度も「これ書いて!」という。

2時間ほどひっきりなしにしゃべって、飲み会より酔ったような気分。どちらからともなく、ロードショーが終わったら色んな企業内での自主上映とかやってほしい、最高の福利厚生になる、というアイディアが盛り上がり、これは三宅さんに伝えたいと思って、熱のこもったままスペースのアーカイブのURLをお送りした。翌日になったら照れてやめていただろうに、こういう時にその勢いでもってやってしまうのは、意外と自分の悪くないところかもしれない。

2月29日(木)

4月からイオの通う保育園の面談。受付で朝から並んだ時に、はつらつとした保育士さんだなあ、と思っていた若い女性が園長先生で驚く。そして、園長先生=ある程度年齢を重ねた人、のイメージで固定化されていた自分の昭和感にウッとなる。一通りの説明を受け、質問をいくつかしたら1時間経っていた。イオは途中で寝て、さらに途中で起きた。0歳児のクラスもこの時期には、もう赤ちゃんという感じではないようで、久々に赤ちゃんらしい赤ちゃんに会えてうれしいです、といわれる。なんどもかわいいかわいい、ともいってもらえて、それがとてもうれしい。

用意するものはたくさんあって、その中のひとつが自作推奨のタオルエプロンという代物。ゴム紐をタオルに縫い付けたもので、これが10個くらいあるといい。恐らく市販でエプロンを10個用意してとなると、それなりの金額になるだろうから、自作を推奨しているのではないかと思う。これ、つくるのか、どうか。自分の手を動かしてつくってみたい気持ち、これからのことを考えるとミシンも買ったらいいという気持ちと、うまくできなさそうだし調達すればという気持ちがつばぜり合いみたいにせめぎあっている。試しに検索してみたら、メルカリで自作の物を売っている人が多数いた。だいたい5枚で1500円とか。なるほどなあという価格。

帰路、じゅんちゃんとテンション上がりながら帰る。あえての認証を選んだので、とてもフレキシブルで、週5日、1日あたり11時間なら、閉園までの自由な時間に送り迎えができる。8時に預けたら19時まで、というわけで、11時間自分の時間が持てる。これってめちゃくちゃ楽では!? とあらためて気づく。そう思うと今が一番きつい時、ということになる。4月からが夢のように楽しみ。

3月1日(金)

あなたは今年中に絶対本を出しなさい。そのため、毎週金曜にその週にできた原稿をじゅんこに必ず送りなさい。そういうことになったので、提出用の共有フォルダをつくって、料理のエッセイと、書きかけのチバユウスケについてのエッセイを格納した。気持ちよい負荷でありがたい。

3月2日(土)

朝起きると、心がまったく動かなくなっていた。頭の奥に鈍い痛みが溜まっていて、何もやる気が起きない。こういうとき、以前なら視界が灰色になって、だんだん自己否定が強まっていき、最終的に希死念慮にとらわれるという、明確なうつのループに突入していたのだけど、イオが生まれてからそれがない。

というのは、別にぼくが病を克服したというわけでもないし、それに当事者として喜ばしい感覚もない。むしろ感じているのは、「ぼくはちゃんとうつになることができなくなったようだ」という不安。双極性障害当事者にとって、うつは出力されたエネルギー量の補填のために引き起こされている安全装置的な機能を持っているわけだけど、今、それが作動してないのではないか。ならば、この先にもっと深い谷が待っているのではないか。そう思うと、とても恐ろしい。なぜか『エルデンリング』をやり続ける。じゅんちゃんはとても快調な感じで確定申告の作業を進めている。あせるけれど、動けない。

3月3日(日)

昨日と同じ症状。ポジティブだったりアクティブなことが一切できない。けど、うつではない。新感覚。全然歓迎していないけど。今日も『エルデンリング』。なぜ途中で投げ出してクリアもできていない死にゲーを、今になってやりだしているのか謎、と思いながらプレイしていたけど、これを書いている3月4日のぼくはそこから抜け出せているので俯瞰して気づけた。うつはエネルギー回復のため体を動かせない擬似的な死としての機能を持っている。イオが生まれてから、ぼくは何らかの理由でその機能不全を起こしている。故に、せめてゲームで擬似的な死をなんども再生しよう、という無意識が『エルデンリング』を選ばせたのではないか、という説。これはしっくりくるし、このグロテスクなのにどこか品を感じるダークファンタジーの世界観が、とても心地よい。

夜中、お世話のあいまに滝口悠生『長い一日』の続き。窓目くんが花見で悪酔いした回で、泣くということについて考えながら読んでいた。泣くって、感情が整理しきれなくて、言葉にできなかったときに出てくるアンコントローラブルな情緒的行動、みたいに思うけど、イオと過ごしていて思うのは、言葉以前に泣くことが、ぼくたちのコミュニケーションの生活史にはあるということ。言葉のない世界で、人間はみんなまず泣いて、それを通して世界とふれあっていたわけで、だから泣くこと、その理由を的確に言葉にできる、と思っていることの方がむしろ言葉というもののあり方を知らない、ともいえるのではないか。ほんとうにこの本は名作。なぜ、この登場人物たちの一挙手一投足にこんなに感動したり、おもしろいと思ったりするのか、もっと考えてみたい。