武田俊

2018.7.20

空中日記 #011|いきなり思いつき料理、の楽しみについて

7月10日(火)

終日「空中」で作業。カレンダーを見ると、主に事務作業とコピーワークに費やしていたらしい。夜、いきなり思いつき料理をする。いきなり思いつき料理というのは、計画的ではなく買い物もすることなく、ただ冷蔵庫の中で悪くなりかけていたり半端に余っていたものたちの姿をとらえた視覚情報と、自分の空腹感などの身体の具合がシンクロニシティを起こし、つくったことのないメニューすら思い浮かんでしまうから、ならばつくってみようという料理のことだ。

ガチャみたいなもので、自分でも何が出てくるかわからないのが楽しい。

パプリカ、おくら、新玉ねぎがかなしそうに取り残されていたその光景と、さっぱりした和風な野菜を食べたいという身体の要求から出てきたのは「和風ピクルス」というものだった。つくったことないけど、なんか調べたらそういうのつくってる人いそう。というか、もはや酢の物では…とか思いはじめたけどやることにする。



こういう時はでたらめで、考える前に手を動かすのがよい。取り残されていた野菜たちを適当にぶつ切りにして、茅乃舎のだしの袋を切って、中身の粉末とあえ、すし酢と思ったけどなかったので、米酢にきび砂糖を加えたものに漬け込んだ。それをんん〜と眺めながら、なんか足りないのでは? と思ったから、小さく昆布を切ったのと鷹の爪の輪切りを突っ込んだ。そして気づいた。いきなり思いつき料理、で漬けものなんかつくってしまっては、すぐに食べられないんだから、その時のお腹の具合を推し量った意味が完全になくなってしまうじゃないか。なんだよ!

となったので、いそいそときゅうりを取り出して、つけてみそかけて味噌をつけてかじってすべてをスピーディに終わらせた。それでも食べ終わったあとには、明日はどんな風に漬かっているかなあ、うまくいっただろうかと考える楽しみな時間が残されていた。それで十分に幸せだった。保存食のように日持ちをするものをつくる行為の中には、こういった喜びが隠れていることを思い出した。これが梅干しや酒類など長期であればあるだけ、喜びの濃度も時間経過ごとに増していくのだろう。

それは……生き残らなければ十分に漬かったはずのかれらを口にできないという意味で、十分に未来を生きていこうと思う理由にふさわしいのではないか。そんなことを口の中に残った甘ったるい味噌を水で流し込みながら、思った。そしてげっ歯類が地中にどんぐりやくるみの実を隠すように、ぼくはびん詰めとなった野菜たちをそっと冷蔵庫の奥に入れた。