武田俊

2018.7.20

空中日記 #012|東銀座のヨゼフ・ミューラー=ブロックマン

アートディレクターの小田さんと一緒に、彼とやっている案件の定例MTGの帰り道に「おれ、このあとトークイベントでるんだよね」と言われ、あ、また行くつもりのイベントを忘れていたと焦った。で、当日券で見に行くことにして、一緒に銀座まで出た。彼は演者なので少し早くに入らないといけない。それでもぼくたちの到着時間はその演者タイムに対しても十分に早かったから、SIXの中のスタバに一緒に入った。小田さんはシュガードーナツ、ぼくはチキンのラップサンドのようなものを頼んだ。記憶によればたしか、グレイビーチキンのほにゃららら、みたいなものだった。和訳すれば、肉汁鶏、みたいな感じになる。中華ならいいが、サンドイッチにはこの画数は重たすぎる。グレイビー、いいフレーズだ。とってもおいしそうだ。そう思って食べたラップサンドみたいなのは、いたって普通のラップサンドみたいなのだった。

SIXの中の蔦屋書店は初だった。というかSIX自体が初で、だからエスカレーターで丁寧に全フロア情報を把握するために登っていった。ここのサインデザインに友人のデザイナーが関わっている、ということも何かしらその行動欲求の源泉になっていそうだった。蔦屋書店以外に、ぼくが用のある店はなさそうだった。蔦屋書店のフロアは広く、イベントの当日券をどう手配したらいいものか悩み、悩んだのでまず全体をつぶすように歩いた。クールジャパン的な棚というかコーナーというか一角があり、そこには三振りほどの日本刀が飾られていた。それを20代後半くらいだろうか、コンサバティブなファッションをしている女性グループが静かに眺めていたのがなんだか胸に迫った。合理的に考える限り絶対に生活に必要のない道具について、志向的にもっとも求めることがなさそうなタイプの人が複数人で凝視している。その光景の強さに、目が引っ張られる。これもひとつの二物衝撃か。

スイスタイポグラフィ、そしてかのグリッドシステムの父祖であるヨゼフ・ミューラー=ブロックマン。その足跡が記された『遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 解題:美学としてのグリッドシステム』の発刊イベントだった。前半は著者である佐賀一郎さんのレクチュアで、後半が小田さんも登場するパネルトークだった。モデレーターがAZの吉田さんだ。イベントがはじまった。

とても良くできたレジュメを使ったレクチュアの時から、様子がおかしかった。佐賀さんご本人にこれまでお会いしたことがなかったので当初はよくわからなかったが、終始声が震えている印象だった。そういう話し方の人なのかな、と思って聞いていたけど、かれがブロックマンのライフストーリーを語る中で、家庭が貧しくて中学卒業後すぐに印刷工になる、それでも学びたくて仕事先を転々とする、当時のスイスは徒弟制度がありその修了証がないからろくに勉強も仕事もない、それでもがんばって根気よく門を叩く……といった情感がどうしても篭もるエピソードのときには、さらに震えるようだった。かれはレクチュアの序盤にこんなことを言った。

「グリッドシステムという構成主義的な手法を用いたブロックマンは、その作品を見ているとまるで人生より先にデザインやシステムが先立っているような、そんなある種冷徹な印象を抱くデザイナーです。でも人生を紐解くと、こんなに人間的な人だったのかと驚くわけです。デザインが人生に先立つ、のではない…。人間は常にデザインに先立つのです」

ぼくはすぐに、その佐賀さんが30時間かけて記したというレジュメのトップページにこのフレーズを書き写した。そのあとは座学だった。ときたま震える声の、その震度の高まるパートはつまりそのまま重要な箇所なわけで、そこに調子を合わせるようにして、大量に書き込んでいった。座学とは、座学とはこんなにおもしろいものだったの? ぼくは勉強することが好きだったのか。ということを思い出した。時空を越えてきた言葉が、事実が、作品が、当時の社会状況が、佐賀さんを依代にして語られるとき、かれはもうほとんどブロックマンの最も近しい友人の一人だった。そのようにして書かれた本なのだった。

学ぶことの喜び、座学の楽しみ、知性とクリエイティブで人生を満たすということ、それをデザイン史として研究することは、人生において限りなく豊かな時間であること。そういった深みのあるポジティブな感情に胸が満ち溢れてしまったので、それをこぼさないようそっと歩いていった。

東銀座が最寄りだったが少し歩きたかったので、日比谷まで流していった。なくなったソニービルの跡地や、行き交う外国人観光客やら、はっとする風景が多かったからバックパックのトップからGRを取り出して、絞り優先モードでそれらを切り取っていった。しっかり構えて撮影するのではなく、風景の中で踊るように軽やかなステップで切っていった。そういうのが似合っている気分だった。流れる風景はほとんどデッサンで、町のざわめきは確かな旋律をたたえた音楽になった。光が、落ちてきた光は地面にあたると跳ね返り、水滴が水面にそうするように波紋を描いて町中に乱反射した。光の標本、宮沢賢治が残したその言葉を思い出した。

そうして現実の半分裏側を踊るようにして歩く中でも、イベントで溜まっていった深みのあるポジティブな感情はまるで目減りしなかった。これをこのまま保存したいから、打ち上げはお暇したんだ。帰って、ブロックマンの本を読まなくっちゃ。そう思っていたから、ひとりで銀座を歩いたんだった。帰りの電車で買ったばかりのサンドラ・シスネロス『マンゴー通り、ときどきさよなら』を読もうか迷ったが、この感情の容器の形態を崩したくなかったから、開きかけたそれをそっと閉じて、ちょうどホームに流れ込んできた電車の乗り込み中で目を閉じた。やってきたいつもどおりの千代田線は、見たこともない20世紀初頭のスイスの風景の中を走り抜けて、ぼくを自宅へと運んでいった。