武田俊

2018.7.31

空中日記 #017|18.44m越しの愛

7月19日(木)

そうして。
そうして、神宮球場軟式野球場にタクシーはたどり着いた。集合時間ギリギリだった。
バッティングセンターのそばに控室があり、急いで駆け込もうとすると、ふわっとガラムの香りがする。ということはそばにあった簡易的なベンチで、とんかつさんが煙草を吸っているということが理解できた。そして彼はただしく、そこに座っていて、ぼくの顔を見るとオッスといった。



新代田キャッチボールクラブは、會田さんが仲間たちと野球をするためにとんかつさんとつくったキャッチボールクラブだった。キャッチボールクラブと名乗っているのは、ただキャッチボールって最高だよねといって、キャッチボールをするための集団くらいがいいよね、ということらしかった。それがメンバーがメンバーを呼び、あっという間にシートノックやフリーバッティングができるような人数になった。そのくらいの頃にぼくも誘ってもらって、数回ほど羽根木公園の野球場で練習を行った。そうして、今日、はじめての試合が始まるのだ。

控室にはすでに浮足立っていた。久々に野球の、しかも試合をするということへの期待と喜びと緊張に満ちていた。何もしていないのに、みんな顔がほろこんでしまってその愛らしさと照れがなお愉快な空気を醸成させた。ぼくは會田さんの隣に座って、今日のために昨日マリオで仕入れてきたスパイクと、入念に磨いたグラブを取り出した。自分で働いて稼いだお金で野球道具を買うというのは、考えてみれば人生ではじめてのできごとで、そのことが高校野球で感じた絶望的な気分以来、どこか他人行儀で暮らしていたぼくと野球との距離をすでに少し縮めはじめていた。

高校野球では禁じられていたロングパンツを履くと、じわっと胸が甘くなった。なんだこれ、プロ野球選手みたいじゃないかwww
そして一拍置いて、一気に戦闘的な気分になってきた。心拍が通常時のそれを大きく越えていると感じ、Apple Watchに目をやるとまさにその通りだったので笑ってしまった。着替え終わったメンバーから外に出ていくが、會田さんは何やらごそごそやっている。なんだろうと目をやると、それは、なんとあの懐かしのメンバー表だった! 複写式になっていて、対戦相手と審判に切り離して渡す用の、あの、メンバー表だった!

そして俺たちはグラウンドに出た。めいめい身体を動かして整えた。ぼくは高校時代にぜーんぶ怪我をしてしまった右半身の主要関節たちを入念に伸ばした。そしてメンバーが発表された。例の「1番、どこどこ、◯◯!」というあのやつだ! 會田さんが打順とポジション、名前を読み上げると、なぜかみんな自然発生的にぱちぱちぱちと拍手した。草野球慣れをしているとんかつさんはそれが微妙な気分になったようで、こういうのはぱっとやろうよといった。でも拍手は毎回起こった。この日揃ったメンバーはみんなで10名で、ひとりDHとして10名みんな打席には立てるという変則的なルールをとった。

1番 一 トミナガ
2番 右 ワタナベ
3番 三 タケダ
4番 捕 マツダ
5番 中 ミシマ
6番 DH ヤマザキ
7番 遊 ツジ
8番 左 カイホク
9番 二 ナカシマ
   投 アイダ



サード!
サードwww
そして人生ではじめてサードを守ることになった試合は、16時、プレイボールを迎えた。

相手チームの主力選手が遅れているということで、我らが新代田キャッチボールクラブは先攻ということだった。

初打席、ランナーは出ていて得点圏だった。
すでにホームがぐしゃぐしゃになっているのがわかった。
どんな打球だったか、たしか三遊間にしょっぱいゴロが飛んだ。全力で走ると送球がそれて、慌ててファウルグラウンドから内側に切り返して二塁に向かう。塁間の半分手前あたりで頭の中に「そういやスライディングとか、すんのかな」と思った。草野球における本気度というか、そういうののバランスがわからなかった。そしてぼくはもちろんスラパンなど履いていなかった。あれえ、これどうすんのが正しいんだろ。そう思っているうちに二塁まであと数メートルとなったとき、背後から野手が送球する気配をビンビン感じた。あ、これマジギリギリのタイミングじゃね、これスライディングしたほうがいいんじゃね!
?

ドタつきながらしたスライディングは、完全に悪い見本のようで、しっかりと膝を擦った。膝頭が熱く、そのあと擦り傷特有のざらついた痛みがやってきた。絶対に傷口を見るのはやめようと思った。だって、まだ初回なんだぜ!

そのあとも打席では、しょぼいあたりながら毎回出塁し、打点も2つか3つついた。スライディングも合計で5回くらいして、以降はきれいに尻で滑ることができた。それは感動的だった。一度ミスすれば、身体は自動的に修正してくれる。なぜしてくれるかといえば、それはぼくが小学校からずっと反復してきた動きの回路がその初回のミスによってがったんと起動したからのはずで、そんなことがゲーム中ずっとうれしかった。問題は、何度目かの時、左の大殿筋に明らかにぴりっと高音質な痛みが走り、それから力がうまく入らなかったことだった。これは後から個人的な問題につながることになる。

懸案のサードでの守備も、初回の1番打者の初級で眼の前にゴロがやってきて、さばいた。あれ以外といけるやん、となって慌てずにワンバウンドで送球した。守備送球のときは肘の位置を意識せず、腰の回転だけで投げるのがよい。アウト。塁間は、現役の時に比べて圧倒的に広く感じた。それはでもランナーも同じで、だから攻め手も守り手もその点ではイーブンだ。一塁送球は慌てずにワンバウンドで十分だった。

先発のあいださんは、すばらしい安定感だった。草野球なので時間制限があるため厳密ではないかもしれないが、わずか5回1失点というのは文句なしのQSだ。現役時代からコントロールに難ありのぼくとしては、いせいよく声を出しつつ、すーっと構えたミットに入っていくボールをぽやぽやとサードの守備位置から眺めていた。三振も5つほどとった。ゆるいカーブで身体をのけぞらせておいたあとに、外角のストレートで見逃し、というのが3回ほどあった。そうやって技術的に奪っていった三振は、自分のことのように誇らしかった。あとから聞くとナックルも投げていたらしい。対戦相手の打者がわざわざ「カーブじゃないほうのゆるい変化球、あれ何投げているんですか」と聞いていた。

自分の投球については、あまり振り返りたくない。控えめにいって、台なしだった。棘上筋、右肘のねずみ、大きく損傷している前十字靭帯。その3箇所に負担をかけないために、テイクバックのときに右肩を下げるフォームを採用してみたし、その参考にと前日にたくさん大野豊のフォームを繰り返し見ていたが、不発だった。リリースがどうのというより、自分がどんなフォームで投げているかをイメージできていない点で、マウンドに立つのはまだ早かったのだ。左の大殿筋が、もうずっと痛かった。

だが、しかし、14年ぶりに立ったマウンドは、マウンドから見た風景は、あまりにも鮮烈だった。久しぶりに訪れた故郷のある地点に立った時、その座標にまつわるあらゆる思い出が脳裏いっぱいになる、その時のような強い感情が起動させられた。それは苦しいことでもあったが、それ以上に圧倒的な郷愁を含んでいた。そのフィールドの中で最も高いポイントから、18.44メートル先にいるミットを見つめるという体験、それだけで過去の忌まわしい記憶と対峙することができた。

でも、それだけではなかった。投球練習の時になぜかうまく決まったVスライダーが、その後の打者との対戦ですっぽ抜けまくり、その悪影響がストレートにも移ってしまい、ランナーを重ね満塁となった時、その時は訪れた。もちろんピンチで慌てている。なので肩をほぐして、センター方向に身体を向けてアウトカウントを確認しキャッチャーのサインを確認しようと右手を腰の後ろに、左手を左膝に起き前かがみの姿勢をとった時ーーそういえばぼくは視力が落ちはじめてから、こうやってサインを確認するようになったーーだった。

18.44メートル先に鎮座するその過去の忌まわしき記憶の壁の向こう側から、ただ野球が好きだった少年時代の頃の、プレイを楽しんでいるだけの心づかいのようなものが顔をひょっこりとのぞかせた。それは具体的な少年の姿形をしていたわけでもなく、色味があったわけでもない。オーラのようなものだったかもしれないが、もっとあいまいな雰囲気のようなものだったのかもしれない。ただいずれにしても、ぼくはちゃんとそいつの輪郭を記憶していた。これはあまりにもうれしい誤算だった。力が全身に満ち溢れ、このピンチを畏れる心がすでに灼熱のマウンドから大気中に溶けて消えていった。軸足に蓄積されたエネルギーが回旋運動にともなって上半身に伝わっていき、それがリリースポイントの指先に届いた瞬間、口からは久しく出ていない雄叫びのようなかすれた声が漏れた。指先が摩擦熱で燃えそうに熱くなった。

投球は、ストライクゾーンを大きく外れ、キャッチャーの頭上を越えていった。
そうして大量リードをしていた新代田キャッチボールクラブは、最終回に追いつかれ初戦を落とした。

「えええ、こんなにうまいのかよ……」
「こういうことだったのか、なるほどなあ……!」
といいながら、打ち上げでビールを飲んだ。野球のあとにお酒を飲むというのははじめてだったが、間違いなく今まで飲んだビールの中でベストだった。まったく他の候補が想像できないくらいぶっちぎりの1位!

渋谷の串焼きやでぼくたちは、背番号争奪ミーティングというのをやった。これからつくるユニフォームのために、自分の希望する背番号をいっせーのーせで発表する。かぶったらどうするのだろうと思ったら、ぼくが希望した11番はなんと3名もいた。そこで、それぞれがいったいいつの誰による背番号なのか、というのを説明し、なぜ自分がその選手を愛しているのかというエピソードを語ることになった。我々は愛のその深さによって、個別の数字を争奪した。数字と固有名詞と年代が数時間飛び交い、めちゃくちゃに笑った。全員泣き笑いのような顔に見えた。たぶん、誰よりもそんな顔をしている自信があった。

ぼくは、まだちゃんとどうしようもなく野球が好きなのだった。罵倒され、試合中に折りたたみ椅子を投げつけられ、トスバッティング用ネットに前蹴りで押し込まれ、その反動で殴られ続けユニフォームが血で染まり、試合が止まり、全体ミーティングの中で家族を愚弄されても、ぼくはまだちゃんと野球が好きなのだった。ぼくは本当に野球が好きでいれてよかった。まだちゃんと好きでいられてよかった。ぼくは野球と、そのすてきなところを思い出させてくれた今日のみんなのことが大好きになった。ぼくは、野球をする人とこの競技とそれに触れている時の自分のことが、大好きになった。この感慨は、チームによってもたらされた、ぼくの14年ぶりの勝利だといってよいと思った。