武田俊

2021.4.12

空中日記 #45|メロンパンと蕎麦の隣


4月9日(月)

オンプラが終わると、ぼくも押くんもへとへとだった。押くん新年度で新しい番組もあり、かなり大変そうなご様子。ぼくはぼくで何が大変なのか自分ではわからないまま、疲労だけが増していて危ない状態。ほんと自分の様子を把握するがヘタくそだ!

帰りにタクシーで最近のそれぞれの仕事の話をしたら、パキっとアイディアが浮かんで、それぞれがシナジーした。これだからおしゃべりはいいよなって思う。チームで仕事をすることことのよろこびに包まれて帰宅。朝、少しずつ明るくなってきた。

4月8日(火)

11時起床。
疲労が抜けなくて、1日好きなことをしていい日にした。
モンハンやって、本読んで、写真を整理して、日記をアップした。それで1日が終わった。平日にうまく休める技術が少しずつ身についてきた感じがする。

4月9日(水)

馬喰横山のαMで黑田菜月の展示『写真が始まる』に、取材と鑑賞を兼ねて出かける。黑田の新作は2本の映像。それに『写真が始まる』ってタイトルつけたのはどういうこと? と思って見たら、まさにタイトルにぴったりなので驚いた。2作品とも写真にまつわる対話をそれぞれの仕方で描いていて、撮られた写真はこのような対話を生む起点となる。その意味でまさに始まりだったし、そしてこれは鑑賞と批評についての作品でもあると思った。写真に限らず、なにかを制作したくなる作品。多くの人に見てもらいたいなと素朴に思う。

晴矢くんとコーヒーして、帰宅。
帰り道にキュレーターの長谷川新(ろばと)がハンドアウトに記したテキストを呼んで、ぶんぶん首肯し、ちょっと泣きそうになる。かれはずっと言葉を研鑽しているよな、と思う。

各位が培ってきた技術は、「妥協」のために、つまりは部分的であったり矮小化されて行使されるべきではない。アートは、「アートなんて無意味だ」とか「どうせいつか死ぬ」とかいう地点にたどり着いてしまってから、むしろそこから、そこをどう折り返して、還ってくるか、という、いわば「帰還の技術」の連続である。虚無と相対化の荒野は、到達地点であったとしても、目的地では決してない。無意味かもしれない、けど、やりたいんだ、と踵を返す。

妥協を「約束の凝集(Com-Promise)」として、途方もなく前向きに考える。それが妥協ではなく約束の凝集である限り、そこには未来の時間が含まれている。今回のαMは、5人のアーティストが、自分が生きて死ぬ時代に、それぞれのやり方で、未来を確信する技術の、研鑽と共有です。

あまりに素晴らしくってストリーズに「ろばとに抱かれてもかまわない」と書いた。

4月8日(木)

ぐったりの日。朝の草野球も、事務所の定例朝会も参加できず。何をしていたのかも記憶は溶けた。

4月9日(金)

あゆちゃんと久々に会ってランチ。『magazine ⅱ』をゲットする。本をもらうのに手ぶらなのもなんなので、かわりに一昨年文フリに出るためにつくった『空中日記2019』を渡す。オウンドメディアブーム終了のあと、企業がメディアをつくることの難しさがある。ブランディングも企業のカルチャーやストーリーも時間をかけて編み上げるべきもので、そこに編集という技術は絶対に必要になってくる。重要なのは、何のために、どういう覚悟で、何をやるか。それを編集部と企業側でしっかり握り合うことで、だからぼくはそこに時間をかけたい、と話す。

買ったばかりのカメラ、X-E4が家のどこにも見当たらずパニックになる。一昨日、取材の時に持ち出したきりだから……と寄ったカフェに電話してみるもないとの由。終わった。もう、最初から新しいカメラなんて買ってなかったんだ、と脳に思い込ませようとして、いったんリビングを少し片付けようとすると、ソファの横に設置してあるゴミ箱の中にぼくのE4はあった! どうやらサイドテーブルにのっけたのが、なにかの拍子でゴミ箱の中に落ちたようだった。見つけた瞬間からじわっとよろこびが溢れてくる。それは一日中腹痛を抱えてすごした日に、ぱっとそれがおさまった時の今から一日がはじまる気がする、という時のよろこびに似ていてた。これを相対的幸福感と名づけよう。

夕方、本年度初の授業「情報メディア演習」。前にチェックしたときから、受講希望者がぐっと増えて40名ほどで慌てる。今年度は対面が前提で、指定された教室の定員が34名。まだ仮登録だけど、ここからどう絞るのか……選抜したくないなあという気持ち。

ガイダンスとはいえ、新見と一緒にしっかりと熱を込めて話す。今年はどんな学生たちと出会えるだろう。何かを教えるというコミュニケーションは一見すると非対称な関係性の間での対話ということになるけれど、非対称だからこそこちらが教わることも多々あるものだ。なんせ学生というのは「未来」を体現した存在そのもので、だから毎週ぼくたちは今年も「未来」に向かって自分たちの知識を話すことになる。そのなんと尊いことだろう! 俸給はびっくりするくらい安いけど、その体験のためにオファーがある限り続けたいと思う。

4月10日(土)

暮らしの中で行ったことと、読んだもの、聞いたもの、ハッとしたり、感動したり。そういうものをあまねく記述して記録したい。そしてそれを未来への付箋として残しておきたい。そういう途方もない欲望があるから日記を書いているのだけれど、実際過ごしているまにその情感を忘れてしまうわけで、それをどうにか再現できないかって、タイムラインで1日を思い出しながら、何行も何行も重ねてもその瞬間的情緒の発動のかんじは、決して記されないのだった。

ならもっともっと圧縮して、ほんとうに重要だったこととやったこと。
それだけを書けるといいな。そう思っていたら、偶然ふたつの日記がこの日読まれた。

柴崎友香さんが晶文社のサイトではじめた「てきとうに暮らす日誌」。
コンセプトがまず今のぼくにとって、ぴったりだ。

作家・柴崎友香による日誌。「なにかとしんどいここしばらくの中で、「きっちりできへんかったから自分はだめ」みたいな気持ちをなるべく減らしたい、というか、そんなんいらんようになったらええな」という考えのもとにつづられる日々のこと。「てきとうに、暮らしたい」、その格闘の記録。

「てきとう」はほんとうに難しい。
当然ながら、「てきとう」は杜撰とは全然違う。発芽の三原則の「適当な温度」のように、ぴったりな感じでなくてはいけない。だから「てきとう」のために「格闘」するっていうのは、とてもよくわかる。

もうひとつの日記は、夏目知幸さんの自分のサイトで書かれている日記

これは日記におけるひとつの理想の形だと思う。時刻、天気、やったこと。聴いたもの、読んだもの。その記録の合間に、じつに簡素に、しかしだからこそ尊いものとして情緒が挟まれる。このくらいの感じが、書いている自分にとってはきっといいはずだ。

親しい友だちに語るように。レトリックなんていらなくて、叙事とほんのちょっとの叙情があればいい。そんな風に書きたいな。

夜は引き続き『七帝柔道記』の再読。最初の合宿のシーンに突入。1日に何十本も乱取りやってて、ほんとやばい……。

4月11日(日)

『七帝柔道記』の影響か、久々に昨晩は3時頃まで執筆。どっかで挟み込みたいな、とずっと思っていたシーンに着手。プロローグはすでにあるから、2つになっちゃうとおかしいかな、とか全体の構成のことばかりよぎるけど、断片をとりあえず書き集める、ってことを試したい気分。

10時起床。じゅんこが買っていたメロンパンだけ食べて柔術へ。最近、メロンパンが好きだってことに気づいた。好きなたべものは、お寿司、焼き鳥、メロンパン。でももっと重要なものがある気がする。好きなものに、もっと気づきたい。

柔術は日曜なのでスパー。合計6本できた。ずいぶん柔術の体力がついてきた気がする。あるいは、力の抜きどころがわかってきたのかも。渋さん、ダイスケさんにオモプラッタの基礎を教わる。クローズドガードを基本に置いたとき、これがあるとバリエーションが増えて大変に捗りそう。柔術の知識は加わるごとに、既存の技の使い勝手も上がるため(相手から何をしようか予想されにくくなるから)、まさに捗る、というのがぴったりなのだ。終わって尾崎さんとチャリで、柔術のあと昼飯何食うべきかいつも困るんですよね、と話す。話しながら、蕎麦やな、と思う。

帰宅、シャワー、プロテイン。BONUS TRACKでfuzkueが新しくコーヒー豆をロンチしたというので、B&Bで「inch magazine」も買いたいし下北まで行くことにする。蕎麦は、はんさむで天せいろ。自分が蕎麦のことも存外好きだということに気づく。BONUS TRACKに行って、ダルマオークション見る。1回目のときよりも見せ方のクオリティが上がっていて、獅子田くんやるーと思う。B&Bはイベントで閉めてて買えず。

蕎麦のあとじゅんこもぼくも睡魔に襲われ、とぼとぼ歩いて帰った。
ドラゴンズ、今日は木下のホームランと福田のタイムリーでなんとか勝利。モンハンは今日はやらない。届いていたDraw a lineを組み立てて設置した。夜はお寿司。好きなものだけ食べた日だ。井上靖『北の海』読み始める。