武田俊

2021.9.27

空中日記 #56|空想のカヤックで

9月1日(水)

午前、久々にパーソナル。今日はビッグ3のマックス、1RM、つまり1回ギリギリで上げられる重さを知りたい、とお願いしていた。実際にその重さでやるのは危険、ということで少しずつ重さを上げてあきらさんが理論値を出してくれることに。ワクチンのこともあり柔術のクラスに行くのを2週ほど避けていたから、ウェイトトレーニング自体の目標を立てることで継続を自分に促したい、という気持ちだった。

で、やってみたところ。スクワットは70キロで10回、80キロで8回、90キロで4回。理論値の1RMが100キロということだった。高校のときは90から100で10回上げていたような記憶があるから、まだまだ当時は遠いなと思う。
つづいてベンチプレス。これは高校のときに投手だからやってなかったあこがれの種目。45キロ10回、50キロ8回、55キロ5回で、理論値の1RMが63キロ。体重を上げられるようになりたい。

最後にデッドリフト。足をワイドに開いて内転筋を効かせるスモウデッドで80キロ12回。ナローで10回。理論値1RMが120キロということだった。「思っていたより全然上がるようになってますね!」と言ってもらえてじんわりとうれしい。

終わったあと「これで8回分のチケットが終わりましたね。よくがんばりました。また必要なときに連絡してくださいね」と言われて、ああこれで一旦終わりなんだなと思うと少し物悲しい気持ちになる。初めて柔術の大会に出るために減量とトレーニングの仕方を教わりたくてここに来たのは6月の終わり。週に1度足を運んでトレーニングを教わり、毎日食べたものを体重を記録した。その他に週に3回ほど近くのジムに行き、習ったトレーニングと有酸素を30分こなす暮らしは、キツかったようでぼくは随分と楽しんでいたのだと思う。目標の68キロまで落とせたのはあきらさんのおかげだし、ティーンの頃ぶり割れた腹筋と、少しだけ盛り上がってきた大胸筋、筋が走るようになった前腕、ふくらはぎ、太もも。前よりもずっと自分の身体を好きになれた。フレームが、世界とぼくとを分ける輪郭が、望む形に近づいた。あとはこれを継続して強化させて、パフォーマンスアップにつなげるのみだ。自分を機能的で美しい愛着の持てる道具のようにしたい。

Twitterで論争になっていた桜庭一樹の新作「少女を埋める」が掲載されている「文學界」。積んであったのをやっと読むことができた。論争のやりとりのせいか、タイトルのせいか、おどろおどろしい自己暴露的な私小説を想像していたのだけど、読んでみると全然印象が違う。

私小説かどうか、つまりどこまでが事実なのか、という興味はさておき、書き手の「パーソナル」な父を看取るという体験と、コロナ禍での暮らし、そこに故郷鳥取の民話と、秘匿されていた続ける母の秘密。これらが結びついては離れながら、私小説的な楽しみとサスペンス的な読み心地を同居させていて、ぐっと来た。そうか、こういう手を使って「現実」を描くこともできるか、というような。

それでこれまで読んでこなかった桜庭一樹作品を読んでみようと思って、サクッとKindleで『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を買って読んでしまう。最新作を読んだあとに初期作品を読むというのも、作家からしたらしてほしくない体験かもしれないけれど、これも楽しく読んだ。この作品も鳥取という故郷、因幡の白兎の話、人魚というファンタジックなモチーフ、児童虐待などのモチーフが散りばめられていて、この時点でこの作家の書きあじというものが生まれていたのかあ、と思う。逆にいえば、ある作家にとっての根源的なテーマはジャンルや設定を変奏させれば、何度でも扱うことは可能なんだ、という勇気も感じる。

 

9月2日(木)

朝イチのプレゼンを決めて、ふんわりとした気持ち。最近導入したエアロプレスで淹れるコーヒーが、とってもおいしい。エアロプレスはぐっと押し込むときに、男らしい気持ちで「おいしくなれよ!」とお湯を押し出す感じがちょっとばかばかしくて楽しい。ハンドドリップよりも味がブレないのか安定しているところも気に入ってる。

M.E.A.R.L.の定例。今日から新体制ということで、これまでのおさらいを丁寧に話す。少しきが引き締まる感じ。でもやっぱり編集会議は対面でやりたいよなあ。

夜、のじとのおしゃべり会。考えている大学院進学の気持ちを伝えて、どんなふうに研究室や大学を絞っていったのか、どれくらいの時間をかけて対策をしたのか、研究テーマの解像度の上げ方などを聞く。聞いているそばから感情が高まっていって、その気になればどんなふうにも人生は変えていけるのだ、という気分に。学ぶ事自体はひとりでもできる。でも柔術で明らかになったように、ぼくは人と肩を並べて学んでいくことで得られるさまざまのこと──その人にユニークな視点、自分との差異、心地よいプレッシャーと緊張、雑談でそれが緩和されるときのみんなの表情、知識と熱量の伝達──そういうものをやっぱり望んでいるようだった。

じゅんこも参戦して、そうかこの二人はマスターを経験しているんだもんなあと思う。ステータスには興味がないけれど、それが自分の誇りになるような学びの時間は、とても魅力的だと思う。

アーサー・クラインマン『病いの語り:慢性の病いをめぐる臨床人類学 』、松嶋健『プシコ ナウティカ―イタリア精神医療の人類学』をおすすめしてもらう。即、注文。松嶋先生はインタビューも教えてもらた。
この「コラム」部分が白眉だった。

明治政府が最初にしたのは、住所が定まらない瘋癲や浮浪民の路上徘徊を禁止し、彼らを施設に収容することでした。こうした施設が後に精神病院となり、被収容者は「精神病者」として精神病学の臨床講義に供されるようになっていく。日本の精神医学が成立していく過程は、国家が非定住者を捕捉し、同定し、登録していく動きと軌を一にしていたのです。こうした背景があるわけですから、精神疾患は純粋に医学的なものというより、社会の規範や国家の統治との関係で考え直される必要があるのです。

狂気に興味を持つことは、サンカや河原者の非低住民や、部落問題、日本の中世、後醍醐天皇への興味とやはりつながっていたんだよな、ということを思いかえす。

 

9月4日(土)

止むにやまれぬ事情で7人人を殺してしまい、必死で逃げ続ける夢。最悪な状態で起床。気圧もあって身体が重い。
じゅんやさんとハゼ釣りに行く予定が、雨で中止になってしまい、さて今日をどうしようかと思う。身体が動かないのでじゅんこがパンを買ってきてくれる。原稿が大変そうでずっと書いていてえらいなあと思いながら、「ポケモンユナイト」。ハイパークラスの5まで来たけど、それより先になかなかいけない。最近使っているのはプリン。サポートタイプかディフェンスタイプのポケモンが好き。

アタッカーはなんだかちょっとバカっぽいし、野良でランクマッチ以外の形式を選ぶと大抵自己中心的なプレイで先陣に突っ込で爆死していくプレイヤーを多く観るから嫌になっているんだと思う。チームワークは都合のいい言い訳などではなければ、自己犠牲の美徳でもない。自分の特性を理解しながら全体を俯瞰した目線を持つ者たちが獲得のできる、世界に対する冴えたやり方なんだ。っていうのは今思いついたバースなだけで、でもこれを最初の会社を経営していたころのぼくに伝えたい。スタンドアローンコンプレックスに影響をされた仲間に、理想とするチーム像をぼくはちゃんと伝えられなかったから。

鍵っ子さんがシェアしていたこの記事を読んで、ああああ、と声にならない声を声にした。

自由とは「自分で決めることができる世界」

閉鎖病棟体験を記したものには大きくふたつあって、その「異様」な空間を刺激的にルポルタージュするもの(コミックを含む)と、その「惨状」を告発するようなもの。ぼくが必要としているのは恐らくその両極の間にある体験で、この記事もその一つのように思った。伊藤さんは結果的に告発をしているわけだけれど、そこので体験とためらいと失われた時間の中で自分のよすがとした表現について、ていねいに語っている。このていねいさがどこからくるのか、といえばきっと取材のあり方で、「CALL4」というメディアの誠実さをこの1記事からだけでも感じることができる。写真もよい。

「文學界」続き。千早茜さんのリレーエッセイ・私の身体を生きる、の中の「私は小さくない」がとてもよい。新しくできた長身の恋人と身体を1日だけ交換できるとしたら、という会話。千早さんはパートナーの大きな身体を全力で使って「骨の一本か二本くらいは追ってお返しすることになる気がする」と答える。「あなたはなにをするの?」と聞いたところ、パートナーは「散歩するかな、近所を」「千早さんの視界を見たい。どれくらい、違うのか」と答える。このくだりを目にして、涙ぐんでしまう。この、想像力が今社会にもっとも足りないものの一つだと思う。想像すること。そしてそれを言葉にすること。それがケアのはじまりで、そして創作のはじまりのはずだ。それが今、世の中にもっとも足りないものなんじゃないかしら。

ケア・コレクティブ『ケア宣言 相互依存の政治へ』とあべ・レギーネ『ぼーっとすると、よく見える』が届く。読み始めよう。

 

9月5日(日)

「なんで私は公共性が高いの?」「ダイナマイトみたいに使われちゃうんだ」
カナリヤとダイナマイト

 

9月8日(水)

調子が出なくって、なぜか所持してなく買い足した新井英樹『愛しのアイリーン』を再読する。もう、あらゆるものが過剰すぎて何度も笑いながら読んだ。

それにしてどの作品もすごい。モブキャラなんてものが存在せず、どのキャラクターもそれぞれの価値観の中で人生を全うしようとあがいているように見える。これが新井作品の一番の魅力で、次にセリフまわしだろう。こんなふうにキャラクターを会話させられるのは、どんな気分なんだろうか。

 

9月9日(木)

選書をし取材を受けた仕事のゲラが届くので、修正。
PDFで届いたので、久々にiPadでGoodnotesを開いてエンピツを入れていく。編集記号の細かな部分を忘れているのに笑っちゃう。しかしこの作業はやっぱり好きだ。WEBメディアのゲラはすなわち最終稿とほぼ同義で(これは普通に気になるところだけど、入稿後のプレビュー画面を展開してそこでチェックしてもらう、ってメディアはあるんだろうか?)だから、縦長の巻物になる。スクロールして都度修正が必要な箇所を見ていく作業。けどゲラの場合、そこにはフィールドが展開されているから、全体の全体性を俯瞰しながら部分に着手していくことになる。これがなんとも楽しくて、めずらしく集中が持続する。

これ紙のゲラとPDFをiPadで触るのと、ぼくの経験上ではほとんど差がないと思う。紙のゲラは単純に束があるので持ち歩きにくいし、iPadなら寝ながらとかソファでくつろぎながらでも作業ができるので、ぼくは断然こっち派だ。
作業のあいまに梨木香歩『やがて満ちてくる光の』を読む。これは年代の媒体もテーマもばらばらなエッセイ集。時を経て変わる目線もあれば、変わらない彼女らしさみたいな通奏低音が流れていてそれに安心感をかんじる。
横田さんとの仕事の定期MTGの時間だったが、先方からのレスがないとなんとも──というステータスだったので、30分の雑談タイムにすることにした。たのしい。同時に、企画しなければ雑談をすることもできないという環境にもう1年半も過ごしているのだなと思う。異常な世界。

女性作家によるエッセイが、男性のそれより自分にしっくりフィットするということの理由についてずっと考えている。教訓の有無、生活設計の有無にその理由がある気がしているけれど、はたしてどうだろう。その流れで女性の書き手により自然に関するテキストを読みたくなって、それで梨木香歩を選んだのだということを思い出す。彼女はカヤックに乗る。その時の世界の感受のしかたがなんとも言えず、豊かな気持ちにさせられる。

夕方、作業が煮詰まって(誤用のほう)、ジムで筋肉を破壊しようと思う。今日はスクワット、とスモウデッド。両方80Kで。ベンチより明らかに汗をかき疲れる。使っている筋肉の総量が多いから? それとも単純に負荷の絶対値が高いから? 写真を撮ってストーリーズに上げる。それをあとでみたときに、身体のシェイプがもう一段階変わっている感じがした。今の体重がたぶん自分の適正値で、68から70キロ代前半あたりをキープしておけば、次に大会に出るときにも負担がほとんどなくてよさそうだ。

一旦帰宅してプロテインとシャワー。妻と買いものにもう一度出かける。紀伊国屋で川内倫子の写真が入っている新装版(文庫)のレイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』を買う。文庫だけどとても良い装丁。さて夕食はと思って張り切るも、途中で何かを自分で調理する体力がないことに気づく。こういうときに手早くすてきなものを食べるお店が用意されていないのが笹塚という町で、仕方ないから駅ビルの上の大阪王将に行ってみることにする。

減量中じゃあ食べられないものだらけで、ならそれだけで楽しい気持ちにもなり、エビの乗った焼き飯と餃子のセットというのを頼むも、ご飯の量が多すぎてへこむ。普段玄米120グラムの人たちになっているので、なぜこんなに米を食べる必要があるのかわからなくなっている。でも残すことができないので、完食してしまう。なんだか空虚なばかみたいな気持ち。
帰ってからこの空虚さはなんだろうと考える。継続的なトレーニングと食事のレコーディングをしていると、何にどれくらい何が入っているのかということと、それが自分の身体にどんな影響を及ぼすのかがイメージできるようになる。すると、ぼくはもともとケチというかASD的な効率好きなので、大事に作った身体に悪影響を及ぼすのがもったいない気になってくる。でもそれを──脂質や糖分の多いやばいも──食べるならば、それがジャンクかリッチかに関わらず、ちゃんと愛でられる快楽性のあるものであるべきだ。大阪王将は、残念ながらジャンク部門でもそれを満たせなかった、というかそもそも満たせるわけないってこと知ってたでしょ? ということからくうる空虚な気分だったようだ。

身体によくないものを食べるなら、快楽の質の高いものを適切選ぼうと思う。心のすてきな弾みをつけられないものならば、そもそも食べる必要なんてない。

おもえばアルコールをほぼまったく摂らなくなったのはこの無駄や空虚に関する感覚の発生のせいで、成分をみれば明らかな通り、彼らは栄養素として虚無でしかないのに、カロリーを連れてくるっていう驚異的に無駄な存在だ。だからこそ悲しくって美しい。アルコール由来の悲しさはもうこれまでの人生で十分受け取ったから、これからは美しい無駄だけ摂取する。美しさだけを根こそぎ獲得する。奪取する。その上で悲しさを感じることができたら、もうけものだろうな。

 

9月10日(金)

久々に税理士さんとMTG。いま考えている、仕事のしかたも生活のしかたも様々に変化させようとしている計画について話す。役員報酬のバランス、インボイス制度について教わる。専門的な知識が人を助ける、という体験や時間、それが支配する現場というのが好きだ。じゃあなんで病院嫌いなんだろうかと思うが、「痛いことをされないことが確約されている病院」に関してはけっこう好きだなと思う。

 

9月11日(土)

午前中にvhtsのギが届く。ずっとほしいな、いい青だなと思っていたNY EDITION 3.0というもの。実物の青みも鮮やかで、ロイヤルブルーという感じ。

 

9月21日(火)

久々にどっしりとしたウツ。なにも誠実にできないからすべてやめ、消えてなくなりたい気分。
瀬々敬久『楽園』。原作の中で自分がイメージしていた光景に作中のそれがあまりにも近くて驚く。