武田俊

2022.1.13

ナラティブの生還

12月23日(木)

日付をタイプしようとしたら12ガチと打っていて、いやほんと年末はなんだか毎年ガチだよなと思う。柔術の忘年会という楽しい予定を終えて、体を休める日曜を過ごしていたはずが、そのあたりから様子はおかしかった。それで月曜、バーンアウトした。2週前の火曜のそれよりずっとずっと強烈なやつだった。アオイくんのライブにも行けなかった。行けなかったこと自体が悲しいというよりは、楽しみにしていたことや、すてきなことをできなかったという事実に愕然とした。そして終わらない申し訳なさと、徹底的な完膚なきまでの自己否定のループ。で、もはやそのあたりから毎度と同じように記憶がない。

記憶がないというのはだいぶと端折っていて、起こった出来事については記憶しているのだけれど、その時どんなふうに、どうつらかったのかということをぼくたちは記憶ができない。記憶ができないことによって、なんとか生き延びることの成功しているというのが我々躁鬱人(via 坂口恭平)の特性だ。

仕事の整理を引き続き進めるために、今並行している案件をまとめてみると、10件ちょっと。
どれもスポットではなくて、定期的な契約のものが主だから、決してすくない数ではないのだけど、自分の「よくはたらいてるな!」という実感は2016年あたりの4媒体の編集長を平行して行なっていた時代につくられたものらしくて、全然働いている気がしてないこの数年だったのだ。

冷静に箇条書きにしてみれば、これでもじゅうぶんに過剰で、ほんとうに自分の体感をとらえるのが下手くそな人生なんだなと思う。

夜、そんな状態であらかじめ決まっていた新しい案件の取材。
若手のアーティストに順番に取材していくというもので、不安がないわけではなかったけど「こういうパターンで失敗したことないじゃん?」って励まして臨んだら、やっぱりとてもいい取材ができる。ぼくは、どんな状態でも口語はうしなわない、できるんだ! と思ったら、灰色になっていた世界(ほんとうに灰色になるんですよ!)に、少しだけ色彩が戻ってきた感じがする。

夜ごはんを食べながら、録ってあった「新美の巨人たち」の谷口ジローの回を見る。寺島しのぶが世田谷文学館で行われている展示をめぐるもので、『歩くひと』のコマのその細密な線画、スクリーントーンを巧みにつかって描いた木漏れ日の一コマが映し出された瞬間に、堰を切ったようように感情と嗚咽がこぼれ落ちていった。隣にいたじゅんこさんが、ビクッと反応するのがわかったけれどそれでも止まらず、ああああ、という声が口から落ちていくのを聞いていた。そのあと、たからかに「心が、心がもどっってきたああああ!」と叫んだら、目からぽろぽろと涙が落ちていった。色が一気に戻っていく──。

けれど、感情の濁流からの復帰というのもこういう場合、すごく早くて、わずか2分ほどでもとの状態に戻り、あとは楽しく番組を見ていたのだった。

 

12月24日(金)

昼、わずか45分のテレカンだったのに、次のアクションまでのクールタイムに3時間を要していて、あーやっぱ全然ダメなんだなと思う。

法政での情報メディア演習、今期最後の回。
だいたい冒頭で気の利いた感じのオープニングトークをやるんだけれど、すらすら止まることがないよな普段の会話ができず、ときたまフリーズしてしまう。新見が「ん?」という感じでこっちを見ていた。言語野が適切な単語をつなぎあわせられない、といった感じ。講評の途中からだんだん言語のリズム感と変換のかんじが戻ってきて、7割くらいのパフォーマンスはできたみたい。

講義が終わってヘリオスの1Fに差し掛かると、5限おわりといえど普段はある程度学生が残っているものだけど、イブなので誰もいない。そのことがなんだかうれしい気持ちを誘いだした。みんなよいイブを!