武田俊

2022.3.10

ニジマスを塩焼きとムニエルから解放する

2月21日(月)

オンプラ、スタジオまで行くのに四谷で降りて歩いていくルートがすっかり板についた。このあたり、夜はなんにもない道だからとくにおもしろくないな、と初めの何回か思っていたけれど、おもしろみはどんなところからも見出せるものだ、ということに改めて気づく。以下、おもしろみたち。

上智大学の中にあおぞら銀行があること
(気になってその後調べたら、なんでもここが本店なのだという)
成城石井が24時間営業なこと。たぶん参議院議員宿舎が近いから。
Go Big Island Coffeeっていうおおげさな名前のカフェ

それぞれ単独のおもしろみはそんなにないが、独特のおもしろみを感じるのは、これらが生き生きとしている(はず)の昼の時間にぼくはこのエリアに用がないからだと思う。確認するすべがないから、想像は想像のままおもしろく保存される。なんでだろう、どんな人が、普段はどんな感じ?
疑問が疑問のまま存在できる豊かさがある。

2月26日(土)

この世界には素晴らしかったから書き残しておくべきことと、素晴らしかったから書き残さなくてもじゅうぶんなことの2つがあって、今日出かけた世田谷文学館での谷口ジロー展のことはぼくにとっては後者のようだった。

混んでいたから早いペースで見終えて、1F に降りると映像が流れている。関川夏央がテレビの中でしゃべっていた。ぼくは編集者としてのかれと、書き手としてのかれ、両方に強く影響を受けている。なのに、かれの顔をこれまでちゃんと認識していなかったようだった。初めてちゃんと見た関川夏央は思っていたよりも、ハンサムだった。

関川夏央。同世代でそんな絶妙に古臭いものに憧れる友人はいなくって、そういうところもよかった。かれの記したエッセイは、都会的でもなければ洗練されてもない東京での暮らしの中に宿る、すこしハードボイルドめいた趣があった。それはなんだかぼくの好きな文学の形に似ていた。こういう時代を過ごしたかった。

道中、春めいていてその光にシャッターを切る。
なにが映っていてもいい。モチーフは光だから、その他の対象には興味がない。
歩きながら、電車で、ホームで、並木道でシャッターを切りながら歩くとぼくは少し遅れる。
すき家の看板に当たっている光すらきれいで、それも撮る。ほんとうになんでもいいのだ。

「そういえば、じゅんちゃん昨日の夜、テイクアウトで食べてて分けてもらった牛丼、あれは松屋だよね? すき家じゃないよね?」
「うん、松屋だよ。なんで?」
「やっぱりそうだよね! いや、その事実を確認したかっただけ。あの感じ、ちょっと強い甘味とご飯の感じはおそらく松屋のそれだろうと推測していたのだけど、その目算が果たして正しいのか検証したかったんだよね。やっぱりそうか、よかったよかった!」
「え、なにそれ…。いつもそんなこと考えてんの? 大げさ……(苦笑)?てか、早口でよくわかんないし。あ、これかめ太郎だ!」

ぼくたちの生活(というか、ぼく自身の)中には、たくさんの分人のようなものがキャラクターとして存在している。今やその数はたぶん30人くらいいて、じゅんちゃんはある時からそれをカードにしている。イラストつきで。ぼくが何かに憑かれたように話す時、ビジュアルシンカーである彼女の脳内には姿形をともなって現れるようで、彼女はそれに名前をつけてカードにまとめている。

その中でオタクっぽく何かについて熱弁するキャラのことをいつからか「かめ太郎」と呼んでいる。
「かめ太郎」は、おそらく幼稚園の時に短冊に書いたお願い(というか将来の夢)である、「ものしりになりたい」がその後成長を遂げた存在みたいで、こうした時に時折登場する。雑学とアタック25が好きな、めがねをかけたかめ。それが松屋とすき家の違いを分析してる。

話題はそのあと、流行り言葉としての「尊い」って形容詞についてに移っていく。かめ太郎の勢いはその時も止まらない。

「オタクでもなんでもいいんだけど、自分が愛している対象について『尊い』の一言で語りを止めるのってぼくはどうかと思うんだよね。愛しているのなら、自分がいったいなぜそれを愛しているのかをその文化圏にいない人にも届く形で言語化し得ない限り、誠実な愛だと思えない。言語化するのってむずかしいよ。でもそのリスクをとらないで、まるで手を抜いているような手つきで語られる愛なんて、ほんとうの愛じゃないでしょう。──あ、でも、こういうパターンならアリかもしれない。同じ文化圏にいて、同じ『推し』を愛し合っている例えば友人同士で、それぞれがどんなふうにその『推し』を愛しているのか、そんなことが自明な状態で、その上で好きな気持ちを違いに承認して含み直すように味わい直すように語りたいっていう時には、一言、『尊い』と言えばいいのかもしれない……」

かめ太郎、本日絶好調。春だからかも。啓蟄が近い。

2月28日(日)

エリアトラウトにはまってしまったので、取らぬ皮算用をしてみよう。
というのは、54センチの大物ニジマスをイメージに合わせながら釣ってしまったぼくだから、釣り日記に釣り上げた日の気温や状況、トライしたルアーアクションをせっせとつけているぼくだから、近い将来エリアに合わせた釣りがきっと上手になるに違いないでしょう。

だいたい、人間のスキルの成長曲線というのは何事も最初にバーンと伸びたあと、しばらく停滞し、踊り場を経て次のフェーズに到達し、そしてまたバーンとあがり……という形で向上していくものだ。柔術だってそうだった。

だから近々バーンと上がってしまう。
するとどうだろう、たくさんのニジマスを持ち帰れることになってしまう。
ニジマスといえば……塩焼き、ムニエル……。そこから先、ぱっと頭にレシピが浮かばない。これは問題です。ニジマスを塩焼きとムニエルから解放せねばならない……。

大きなものを釣り上げてわかったのは、これはサーモンである、ということです。
大型化したニジマスは体内に色素を取り込む量が増えて、身が赤身化する。これが、回転寿司とかで回ってるサーモンの正体で、サーモンということはつまり生食ができる。そしてその上で加熱すれば、これはもうほとんどシャケです。ポケモンみたいなものだ。でかくなると進化して、環境が変わるとフォームが変わる。ってか、ポケモンがシャケみたいなものだ、が正しいんだけど。

とりあえずニジマス解放レシピを増産せねばなるまいぞ。
ということで、今回の大物は、さしみになり、ちゃんちゃん焼きになり、最後になめろうとちらし寿司になりました。

 

スーパーで買った「でんぶ」が開けてみたら衝撃的なピンクで「うそみたいな食べもの!」って文句を言いながら食べた。