武田俊

2022.4.12

「すぐ」も「やる」も「べき」もよくない

3月8日(火)

昨日ラジオ明けになかなか寝付けなかったので、ねむい。じゅんちゃんに迷惑をかけてしまったので、おわびのような気持ちでこのあいだ唐突につくった肉味噌を乗っけた肉うどんをつくる。こういう素朴な食べもの、実は外で食べるより簡単でも家でつくったほうがなんか体にじんわりと染みる不思議さよ。おわびついでに美容室もキャンセル。申し訳ない気持ちがぐん、と高まるも自分の心地よさを優先するトレーニングよ、と言われる。プログラミングのように、自分を動かすコードをターミナルに打ち込むような気持ちで。

空いた時間で、ぼーっと録っている「ザ・フィッシング」を見る。
照英があのニコニコ顔で、イカを釣っている。スルメイカとヤリイカだ。あのただのプラスチックの棒みたいのに、エギと同じような針がついている。名前もまだ知らないのになぜか引かれる釣り方だ。そのしかけがハリスにたくさんついていて、仕掛けぜんたいの長さが10メートルにもなるという。仕掛け投入の際にからまらないよう、投入機というロケットランチャーのような筒にそれらをひとつずつ押し込んで、おもりをぽーんと投げるとひとつずつが水中に射出される、という釣り方。

いま何も考えずに兵器にたとえたけれど、じとっとしたいやな気持ちになった。

なにはともあれイカ。照英はたくさん釣っていてうれしそう。間にひとコーナー入って、船上での楽しみの紹介がスタート。沖漬け(文字通り沖で漬ける)はまあ知っていたけれど、船上干しという文化を初めて知った。晴れた青い空に真っ白なイカがたなびいていて、なんともキレイ。そして干されたイカを背景ににっこりと笑う照英。

 

3月9日(水)

釣りが今のぼくのセラピーなのは、どうやら疑いようもない事実のようだ。何が釣りによって回復しているのだろうか。どういう効果があるのだろうか。いくつか複合的な要因がありそうだ。

・人と関わらない。視線が自然の方を向く
・脳だけでなく身体を連動させている
・同時に脳を魚の状態とそれに適したルアーの動き、にのみフォーカスさせ続けられる。他のことを一切考えられなくなる
・積み重ねていく経験と知識、それが釣果に結びつく。上達を実感できる
・初心者なのでうまくなるたびにその世界の解像度の高まりを実感しやすい

全部大事で、でもとくに最後のやつが自分にとっては大切なんだろうなあ。
わが読書人生の中で、ベストエッセイスト5に入る詩人・平出隆の『ウィリアム・ブレイクのバット』の中には、かれのエッセイの中でもぼくがこと好きな「絶対初心者マーク」という短いテキストが収録されている。

この本には1980年代に著者がアイオワで自動車免許を取得したことから、連動するように車と運転についてのエッセイが入ってる。その中での際立つのがこの「絶対初心者マーク」なのだ。

免許取得後8年車に乗っていなかった平出さん。初心者マークをつけることに違和感を感じている。それでも運転から離れているから、運転席に乗り込むと、やることの順番やチェックすることがとっちらかっている。数回初心者マークをつけたが、外すことに。その理由が「初心者ではなく絶対初心者を宣言したくなったから」だという。

ではあらためて、絶対初心者とはなにか。それは、初めてのときだれもが抱き、そこからはだれもが忘却していくばかりのあの全身的おののきを、生きものにとっての絶対的根元的始原的快楽として保存し、けっして忘却せず、これを運転席でいつでも、のど飴かなにかのように簡単に取り出せる状態に置いておきながら上達していく、みずから選ばれしドライバーのことである。──といったことになる。

ここまで書いたけど、これは3月11日に書くことになる日記にぜひとも取り込みたいので、ここまでにしておこう。重要なのは絶対初心者であり続けるために、趣味をどう楽しむか、ということなのだ。

 

3月10日(木)

ずっと、「やらなきゃな……でもなんかめんどくさい」という行政上の手続き的なことをしたらびっくりするくらい身が軽くなった。これはいったいなんなのか、と思う。いつかやらなければいけないこと、の存在は生活を重くする。いっときそのタスクの存在を忘れ、何かを楽しむことができたりする。

ほんとうに忘れることはできないし、むしろ忘れてしまえばあとからさらに苦しむことがわかっている。だから瞬間的に楽しい予定があった場合、全力でその刹那タスクから解き放たれようとしがち。ハメをはずそうとしたり、そういう瞬発的な快楽を無意識が要請するかんじ。

手っ取り早いのがお酒。
そしてお酒がつれてくる、あらゆる瞬発的なたのしみたち。
そのどちらも今のぼくは手放しているので、ただじくじくと忘れられない時間だけがのしかかってくるというわけだ。

どういう人生の局面でも、大小さまざまな「気の進まないけどしなければもっとまずいことになる」タスクっていうのはあるはずで、そいつらからのダメージを一番手っ取り早く解決する方法は「すぐにやるべき」なのだろう。でもあらゆることに対して「すぐにやる」が向いていないから困っているんである。

だからこれは考え方の違いで、解決するべきなのかもしれない。
「すぐやるべき」の「べき」がまずよくない。強い強制力というか、一般的な規範にハメてやるぞ、って感じがする。
つぎに「やる」もよくない。「やる」のあとにはどうしてか「べき」的な言葉が結びつきやすいし、そもそも能動性が必要とされるからだ。
それに「すぐ」もよくない。ぼくたちはそんなになんでも急げるわけじゃない。
つまりフレーズを構成する語、すべてがよくない!

もっと能動的じゃなくて、なにかに身を委ねていたらその結果タスクが終わっていた、みたいな感覚に近づけたい。そう思うと、「流れをとどめない」くらいがいいような気がする。外部からの要請も時間の進みも自分の行動も、そのエネルギーの種別をあえてしないでとりまとめてひとつの流れとして、それをとどめないのがヘルシーだ、というふうに。