4月25日(月)
ももちゃんからお誘いをもらって、式典に行く。
範宙遊泳・山本卓卓くんのお祝いに岸田國士戯曲賞授賞式にお呼ばれして学士会館での授賞式だ。
スーツがきらいである時、気持ちのままに捨ててしまっていて、無印で買った簡単なめっちゃ軽くて涼しいやつしかない。からそれを着て、いつかの結婚式かなにかのために買った好きでもないシャツにシルバーのネクタイ(これはわりと好き)を合わせる。
急げ急げと玄関に向かうと、そういえばちゃんとした革靴も捨てたのだった。
だから足元はCAMPERのレザーのスニーカー。
さらにそういえば、スーツに合わせるカバンも今持っていないのだった。
あわてていつものシルバーの長財布(これもわりと好き)から、お札数枚とカードを抜き取って、なにかでもらったFREITAGのジップのついた小さいケースに移して出かけた。
神保町のちょっとメインから離れた出口から出ると、目の前に学士会館、なのだけど、それよりも真っ先に目に飛んできたのは大きな手がストレートの形でボールを握っている石像。
なんだなんだと近づいてみると、「日本野球発祥の地」の文字が目に入る。ほほおと思って、すぐその場で色々調べたいと思うものの時間は17時50分で、18時開始だからやむなく入り口へと足を向ける。こういうの、その場で調べないと全部興味関心ごと抜けていってしまうね。
(ここまで書いて、途切れてしまっていたから断片たちに登場してもらう)
自分が着るのは好きじゃないけど、晴れ着を着た人たちを見るのは好きだ。
そういう人に囲まれて、関わる人たちのスピーチを聞いていた。
ももちゃんのスピーチで、ぼくの心は完全にノックアウトされてしまった。
ぼくの知る限りでの、範宙遊泳の、山本卓卓の、そしてももちゃんのここに辿り着くまでの道のりの厳しさを思い出して、それがつながり合いながらただただ聞いていた。
「彼が生きていたいと思えたことがうれしかった」というようなことをももちゃんは言っていて、それで涙が止まらなくなった。おそらくぼくはある時期、生きていたくない、と感じていたすぐるくん自身を生きていた。ほとんど同じような生きていたくなさ、というか、生きることの途方もなさを抱えていた気がした。
賞というはその途方もなさを越えて生き残った日に、途方もなかった日々の中に苦しさもあれば、見逃してしまったたくさんの光もあったことを、生き残った人々と集い思い出すためにこそあったのだと思った。それなら、賞とは、なんと素晴らしいものか。
インスタにたくさん感動の言葉を書いたから、もう貼ってこの日は終わりにしよう。
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4月26日(火)
ラピッドサイクラーだから、ぼくの中の感情がどれだけ大暴れしても一度寝てしまえば、その乱暴ぶりも、あるいは感動の質感も抜け落ちてしまう。だからここまで生きてこられたのだけど、おどろいた。
起きて重たい体をなんとか起こしたとき、最初に体を駆け抜けていったのは、昨日の授賞式での感動だった。それが雷にみたいに通り抜けていって、解像度を落とすことなくなんどもなんども再生できた。ももちゃんのスピーチのことば、彼女の声の震え、それでも大きく泣くこともなく最後まで語り終えたあとの静寂、その日いちばんの拍手。ぜんぶがまったく褪せることのないまま再生ができた。はじめてのことだった。うれしかった。だから家を出る前の時間のある限り、なんどもなんども再生した。体を起こして再生し、歯を磨いて再生し、廊下を歩いて再生し、シャワーを浴びながらまた再生した。どうか忘れませんようにと祈りながら再生するたび涙があふれ、毎回新鮮でかつなつかしく、だからこそ昨日の瞬間はもう2度と戻らない時間になってしまったことを知った。永遠と瞬間。それをなんども繰り返した。涙はずっととまらなくて、それはなんだか覚えたての手淫のように淫靡で心地のよいものだった。
10時に東京駅について、たかくらと合流。
昨日ぶりだねって言いながら新幹線で名古屋へ向かう。今日は幼なじみの現代美術家・多田ちゃんのスタジオに二人で出かけるのだ。ぼくにとっておもしろいのは、新旧の親友たちと一緒に地元で過ごす時間がこの人生に存在したってその事実で、しかもふたりとも作風というか人生が、大きくゲームに影響を受けているってことだったりする。
豊田市美術館に行って、そのあと多田ちゃんがはまっているサボテン園に連れて行ってもらい、サボテンを買った。人のどっぷり浸かっている趣味の世界のその入り口に立つことは、なんておもしろいのだろう。一人が淡々と深めた知識の泉のほとりで、うわーと思いながらそこを眺めていると、ちょっと照れ臭そうに「それはね…」と教えてくれる。縦に掘られた知識の到達地点から対角線上に手が差し伸べられて、その手をとってどぼんと泉に浸かっていくときの、おっかなびっくりとした高揚感。
ぼくはさんざん迷って、マクドガリーというサボテンのちいさな株をひとつ買った。一属一種のめずらしいものだという説明に惹かれたのは、耳で聞いた時に一族一種と変換されて、なんだかめくるめくクロニクルを想像してしまったから。
「うん、武田らしくていいよなあ。俺はね、これ。だってこれほら、RGBっぽいじゃん?」
たかくらがそうやって手に持ってきたのは、錦と呼ばれるオレンジなどの暖色に一部が変化した個体だった。彼が選んだのはその中でもとくにバキバキにピンクに輝いているひとつで、思わずそれに笑ってしまう。
スタジオはすばらしかった。
たかくらから中に入ったとき、がくっと彼の体が一度止まったのが見えて、そのあとぼくもきっと同じ動きをした。同い年で、小中高と12年同じ空間を過ごしてきて、そういう彼が作家としてここまでの環境を自分たちで整えて暮らしている、というそのこと自体が感動だった。こういう時にこそ写真を撮らなきゃいけない。そう思って、XE-4のセルフタイマー機能をはじめてつかった。
帰りの車での中でトイレに行きたくなったたかくらが
「武田の実家にマーキングしてっていい?」
と言って、トイレだけ借りていった。ついでに多田ちゃんもトイレにいった。
母はにこにことうれしそうだった。
4月27日(水)
感動って疲れるんだね、ということを学んだ。
東京に戻る気力がなく、実家でじっと寝てた。
4月28日(木)
実家の車を借りて、ジムへ行く。ちょうど今通っているジムの系列店舗が比較的近くにあったのだ。交通事故死傷者数ナンバーワンの県を走る緊張感。地方のジムには、排他的ムードのウザマッチョがいなくてとてもよいことが理解できた。実家にもジムシューズを置くべきだな、という学び。
夜、東京に戻り、にいみと石井くんと池袋で飲む。
早めについて歩いた南池袋の町は、大きく変わりながらもその街路を歩けば、体を通してこの町で会社を立ち上げた日々のにおいが足元から立ち上ってくるようだった。そのにおいに包まれたまましばらく歩き続けた。