武田俊

2022.6.8

空中日記 #73

6月7日(火)

寄藤文平さんがつくっているスケジュール帳・ypadを今一度使い直すことに決めて、昨日2週間分を記入した。これはカレンダー型のスケジュール帳とプロジェクトごとのガントチャートが一体化している個性的なもので、聞くところによればリリースされた10年くらい前に一部の美大生やクリエイターから強く支持を得ていたらしい。日課のコツをたくさんの本、そしてまるで機械のようにこなす先輩たち(彼らは自分自身をタスカーと呼ぶ)から話を聞きすぎておそらく耳年増になっていて、彼らの秘術を満足に追いかけられない自分を見るのがいやで、いつも途中で止まってしまう。それを改善するのが今回の目的だ。
ルールは
①設定した日課の達成を評価しないこと
②設定した日課が達成できずとも自罰しないこと
のふたつ。
評価をしないというのは、しかしなんて難しいんだろう。仕事でも生活でもPDCAを回してひたすらに改善を図る。そのための施策を常に考え実行できない場合はそれを阻む課題を分析して対処する、ということがいつからなのかすっかり自分の中に染み付いてしまっている。そのこと自体にはいい部分もあるのだけど、課題が明確なのに改善が図れない、ということがこと生活の中にはたくさんある。最も多くの障害になるのがぼく自身の特殊な認知や持病なのだけれど、過去の自分にとっては「あらゆる課題は課題だと認識できた上で改善可能」だと認識しているので、それに対処できない自分のことは「サボっている人」と感知してしまうらしい。それでひたすら自罰的な言動を自らの向け続けてしまう。

ほんとうに重要なのは、課題に対して真正面に向き合って改善を図るのではなく、視線をずらすことなのかもしれない。ぼくは脳の特性上三次元の空間処理が苦手だから、平面だったはずの洗濯物をたたんで立体にすることが苦手だった。一時期はそれを妻に全て託してしまっていたけど、彼女の忙しい時には洗濯物は溜まっていくわけでそれはそれで心地がよくなかった。で、現在どうしているかといえば、まず乾燥まで完了したものをそれぞれのランドリーボックスに仕分ける。これはできる。そしてそのうち分けられない共用のもののうち、タオルを畳む。畳み方もバスタオルは二つ折りにしたあとくるくるのり巻きみたいにまるめ、ハンドタオルは四つ折りにすることにした。これならなぜかできる。でもここまでで既に認知能力をかなり消費しているから、いったんストップ。あとはランドリーボックスをそれぞれの自室に配置して、それが溜まってしまうまえに雑でもいいので畳んでしまう。メインのトップスについては畳まずにハンガーにかけてクローゼットにしまうことにした。こうやって追ってみると、畳む、という動作は発生しつつも真正面から取り組まない姿勢を配置することによって、負荷をずらしていることがわかる。日課もこういうずらしでもって運用したいのだ。

夜、井上尚弥の世界戦をAmazon primeの配信で見る。さすがAmazonのプラットフォーム力、以前RIZINがU-NEXTで配信したときのようなラグなど一切ない。依存すればするほどプラットフォームの力が上がってUXが快適になっていくのはしかし、なんて資本主義的な皮肉だろう。井上の試合は圧倒的だった。1R、ドネアが39歳とは思えないフットワークとキレを見せていたから、「これは安心して見てはいられないな」と力が入っていたけれど、終わってみれば圧倒し続けた試合だった。「今回ドラマは起こらない」と自分にかけたプレッシャーをそのまま現実化させてみた。彼がギアを上げていく過程は、普段ボクシングに感じる美しさが一切感じられなくって、ただただ恐ろしい感じがした。

平岡アンディVS赤岩俊戦の方が、ぼくはひょっとしたらボクシングの試合としておもしろく見ていたかもしれない。少なくとも饒舌に語れるのはこちらの方だった。すでに世界戦を焦点に充てているというアンディについては解説者もたくさんの語りをすでに用意していて、実際彼が解き放たれると恵まれたバネ、リーチ、リズム感全部を使ってリングの上で躍動していた。対する赤岩は商社の営業マンとの2足の草鞋的なナラティブでの紹介をされ、実際にリングの上でもぎこちなく直立したようなファイティングポーズで対していた。躍動する平岡と硬直する赤岩。それでも赤岩が顔色を一切変えずにガードを固めながら距離を詰めていくと、ときたまノーモーションの左ジャブと、カウンターの左フックが当たる。それを効いていないぞとダンスを交えて挑発する平岡。与えられた才能と身体を努力でもって強化し、まさにそれが今華開こうとしている平岡と、これまで培ってきたものすべてを投じてそれを止めようとする赤岩の対照的な立場からの交わりには、その他さまざまな世界への隠喩となるような物語に満ちていて、結局どちらを応援することもできないままその場を見つめ続けるしかなかった。自分が格闘技ほか個人戦のコンタクトスポーツに惹かれるのはここかもしれない。結果が明確でそれがすべて個人に降り注がれる。その無情さと苦しさは想像するばかりだけれど、だからこそ勝者が浴びる歓声と敗者が身にまとう色気が存在するっていうこと。

横道誠『イスタンブールで青に溺れる』、中村智幸『イワナをもっと増やしたい!』、福尾匠『日記〈私家版〉』を読み、Netflixオリジナルの『ミッドナイトアジア: 食べて・踊って・夢を見て 』の東京パートを観た。Netflixのオリジナルドキュメンタリーってきっと共通のスクリプトがあるんだろう。ナレーションって難しいな、と改めて思った。