武田俊

2023.2.14

空中日記 #87|スラムダンク、真っ正面から受け止めて

2月5日(日)

UFCに備えて、午前は家事。布団干して、洗濯して、洗濯物を畳む。平良くんがしっかりと勝ち、中村倫也が思いのほかあっけなく勝ち、そして木下くんがあっけなく負けてしまった。組際からのリーチを生かしたロングのストレートがきれいに入って、倒れてしまった。ショックだった。思ったよりもかなりショックを受けた自分に驚いた。契約後初のUFCでメインイベントというのはけっこう期待されていることの表れで、何試合契約があるかわからないけれど、それでいきなり負けてしまうとこのあと分が悪くなるのは明らかだった。

UFCはシビアだ。減点法のようにして、負けた選手は容赦なくいなくなっていく……。負けてすぐ

ただの普通の選手でした。また頑張ります。

と書いていて痛切な気持ちになる。でもすぐそのあと、これである。

こういうところが本当に気持ちのいい選手!

車を持ってみて、知らなかったことの多さに気づく。フォグランプを使うタイミング、ACC発動の手順、スマホホルダーは何がいいのか、カーナビの地図アップデート切れたら使いづらいか、音楽聴く音質はナビで変わるのか。車内という狭い空間に、こんなに知らないことがある。それが知られて楽しい。

再読していた『ライティングの哲学』を、これからも何度も再読するのだろうと思いながら読み終える。千葉雅也『アメリカ紀行』を走り再読。

 

2月6日(月)

起きてマフィン食べて、また昭文社の『全国高速道路』見てる。ナビ使わないで、色んなところに行きたい。脳と身体と地形を沿わせたいのだ。思いつきでどこでも行けるのが車を持つことの利点だと思ってたし、今もそう思う。けれど、これまで車で移動するのは「とくべつ」なことだったので、まだ気楽な気持ちと思いつきと車の3つが結びついていない感じ。

スポーツぎらいをテーマにしたヒアリングに、「スポーツ好きだけど体育会嫌い」担当として参加。個人的な発見がたくさんあった。人をスポーツ嫌いにさせるのは、本人のせいじゃないんだよな。環境と教育と支配的な文化空間のせいだよ、という意見をまた強く持つ。ぼくは野球と文学に両方が好きで、でもそれがどうも高校の世界では両立させてもらえないようで、それぞれに引き裂かれるようにして分裂していった実感がある。

「それでもなんで野球が好きでいられたんですか?」

そう聞かれて、色んな言い方を試すように答えていったのだけど、最終的に自分の口から「つまり、ぼくには文学があったから、野球を嫌いになりきらずにすんだんです」という言葉が出てきて感動的だった。野球を知らない文化系の友達に、その良さをなんとか伝えようとできたのは、文学があったから、というのがその理由で、これはもっと深めて自分自身の言葉にしたいと思った。いつでもどんなときでもすぐに取り出せるような、ダッシュボードのような場所にその言葉を置いておきたい。

お昼、佐々木敦の新刊『映画よさようなら』の中に掲載された原稿の一部が、初出媒体への許可取りが出来てなかった、ということを版元が誤っているエントリを見た。さらっと流し読みして、「なんでこんな基本的な連絡ができてないんだろ?」とまず思い、もう一度読んで「うん、でもあくまで礼儀上の話であって、著作権は著者にあるならこんなに公的に謝る必要ある?」と思う。

どうやら映画パンフに原稿を寄稿してもらったサニーフィルムという会社が、とてもとても怒っているようだった。Twitterをのぞきにいってみるとたしかに憤慨している。大義がこちらにあることに、揺るぎない自信があるからこんなに怒るのだろうけど、はて、著作権はどこに? と思う。

夜、試験監督で疲れてたじゅんちゃんを大学まで迎えにいく。理由があればスムーズに車に乗れるよう。これを理由ないまま使えるように早くなりたい。帰り道にびっくりドンキーに行ってみる。じゅんちゃんは初めてとのこと。「じゅんこはパインの乗ってるハンバーグにする!」と楽しみそうだったけど、入店してびっくり、パインが物流の関係で不足してて、パインメニューだけ出せないとのこと。そんなことってある? しかし、帰り道に車でびっくりドンキーに寄るなんて、なんて由緒正しい郊外都市の暮らしだろう。うっとりする。

千葉雅也『オーバーヒート』を再読する。やっぱりとてもいい。Tak.『書くための名前のない技術 』の千葉雅也回を再読。千葉さんの、workflowyのスクリーンショットが見たかったのだ。それにしても千葉さんのTwitterはほんとうに使い方にあこがれる。まねしてみている。

 

2月7日(火)

午前から「青の輪郭」。今回もやっぱり苦しい。うんうんうなりながら、5000字書いたけど、まるっと1日かけてしまった。失敗。やっぱりこの本を書ける集中力はせいぜい1日に2〜3時間くらいで、後半はほとんどぼんやりしてしまっていた。1日かけるなら、もっと途中で手を止めるなり、場所を変えるなりしたい。

外に出ると、春めいてる。大気の中に水分が増えた感じ。

夜、阿久津さんとゆうくんの回で新宿に。友達に会うためだけに外出する1日だ。ゆうくんと会うのはなんと1年ぶりのことで、毎月のようにこの3人で会っていたのがうそみたい。なんの心配もない関係で交わす会話は、どんな内容でも楽しくって、「やっぱいつメンの回はいいねえ」というと「年1じゃあいつメンじゃあないよ、もう笑」とゆうくんがいい、「いつメンってなあに?」と阿久津さんがいった。

「青の輪郭」について話していると、阿久津さんから個人名を出さないほうがぼくはよかった小説として読んでいたから、何か読みがずれちゃう感じがした、何なら全員すべてキャラクターとして仮名したほうがいいと思うくらい、という意見をもらった。ずっと自分でも気にしていて、これからの連載でより多くの人たちが登場する中で、どんなふうにすべきか悩んでいた部分だった。

帰ってからじゅんちゃんとも同じ話。彼女も同じ意見。さらに踏み込んでクリティカルな意見をたくさんもらう。その論が展開されるたびに、不安になったり、楽しそうに思ったり。たぶん百面相みたいにころころ表情を変えながら聞いていた気がする。最後、ふたりでいいアイディアにたどり着いて興奮する。頭が熱くなり、そしてなぜか下半身もじっと熱を帯びていて、いったいどうしたんだろう。うまく眠れないままじっと布団の中にいた。

2月8日(水)

午前、「青の輪郭」。書きながらまた悩んでしまうが、がんばって手を止めないで進める。新しい展開のアイディアがあって、それをごとうさんに早く話したいけど、そのトリガーになったのは書きかけのこの14話なので、まずそれを形にしなければならない。

Ulyssesでばーっとまとめたドラフトを、docksに移して整形していく。魚をさばいて腹骨を外したり、トリミングしていくときの気持ち。きれいな柵取りをして、ごとうさんに渡したい。

2月9日(木)

午後、podcast #もしくろ の収録。まるっと5時間近くファシリテーションし続けるので、認知能力のほぼすべてを使うからしんどいだけど、しんどいぶんおもしろいんだな。

夜、阿久津さんと映画のスラムダンクを見に行く。近いからパジャマみたいな部屋着のかっこで外に出た。部屋着みたいなもので映画館に行くのって、外にNetflixがあるみたいでいい感じ。スラムダンク、ぼくは根暗な10代の時にブームだったから通ってない。あの頃は、ブームっぽいもののすべてを遠ざけながら、心の中のミーハーな部分で「でもちょっと気になるよなあ」って思ってた。みなさん、そういうことありませんでしたか? ぼくは10代の全部そんな感じで、だからこの間の飲みで阿久津さんに「スラムダンク通ってないなんて、人生の半分損してるよ!」といわれたんだけど、そんな阿久津さんが原作のマンガの一部読んでない上、映画もまだだったからぼくらはたくさん笑ったのでした。

で、マンガ読まないまま見て、なのにすごく感動した。2時間、いいスポーツの試合を見ていた感じ。読まずともブームの渦中を過ごしていたから、キャラクターのことは知っていたのがよかったのかもしれない。冒頭、鉛筆の絵コンテみたいなのから徐々にキャラクターが立ち上がってくる。そこでThe Birthdayの「Love Rocket」がかかって、そこだけでもうグッとなる。『ホドロフスキーのDUNE』でいちばん感動したのは、メビウスの書いたコンテに色がついて、それが映画の中で動き出すところで、アイディアが動き出す、こと自体にぼくは感動するのかもしれません。

ほとんど完璧だと思って感動して、映画が終わって、明るくなってすぐ、まだ映画館は静かなのに阿久津さんに「めっちゃかっこよかったね!」という。こんなふうに自分も作品をつくりたい。いい映画やいいライブを味わってるときって、ある地点から半分以上うわの空の感じで、自分自身の創作について考えてたりする。今回もそう。試合中に展開されるチームワークに関するやりとりを見て、ぼくは自己防衛的に高校野球を憎むしかなかったけど、いやなものとして上書きするしかなかった記憶の底のほうには、こんなふうな気持ちいい瞬間的な信認のやりとりがあったのかもしれない。たぶんあった。それも、それがあったこと自体を書いておきたいな。

「青の輪郭」は文化系のスラムダンクとしてやりたい、というか、たぶんそういうことをぼくたちは実際にしていたんだと思った。そこをちゃんと直視して、真っ正面から受け止めたい。自分の中に眠ってるミーハーで、王道的なものにしっかりと感動してしまう感性を、ちゃんと見据えて、ヘンに斜めから切ったりしないまま書き上げたい。

こうふんのまま帰宅しながらじゅんちゃんに電話して話す。帰ってから、スラムダンクの感動と自分が「青の輪郭」でやりたいと思っていることについて熱弁。ふたりで2時間くらい話してしまう。彼女のスラムダンクのマンガを読む。7巻まで。ふと大槻ケンヂ『グミ・チョコレート・パイン』がヒントになりそうと思ってKindleで買い直して読む。めっちゃ参考になる。脚注すきだ。

2月10日(金)

めっちゃ雪の日。警報出てた。午前、「青の輪郭」の定例。また何回目かの仕切り直し。実名で人物を記していくっていうことの倫理とクリエイティビティ、ってまとめてみるとなんか仰々しいアジェンダで話し合う。自分の中ではほぼ答えが出ていたから、ごとうさんにそれを聞いてもらう。ぼくがこの本でやりたいのは大槻ケンヂ『グミ・チョコレート・パイン』とスラムダンクを合体させたようなものな気がしてくる。

午後、新しい仕事のMTG。今日は顔合わせ。zoomで顔合わせとなると、ほんとうに顔しか合わせてないからこれがほんとの顔合わせ、と思う。電子的な顔、顔、顔。メンバーのひとりに10年ぶり以上の方がいて、懐かしさでにっこりする。「えー!」って反応してるときの自分の電子的な顔が、井戸端会議で盛り上がるおばちゃんの表情をしていた。

夜、品川から新幹線。ぎりぎりの時間について駅弁を買って移動中に食べるか、早めについて駅ナカでなんか食べるか迷い、寒いからあったかいものをと思って後者を選ぶ。駅ナカ一風堂で味噌の方のやつ。煮卵をのせたの選ぶと、1000円くらいする。ラーメンって高くなったなあ。ちょっと前まで、ちょっと贅沢に何か乗せても1000円はしなかったし、1000円越えたら躊躇してた。今はそんなもの、と券売機のボタンをすっと押してる。

名古屋は雨で、家のちかくの駐車場の広いファミマのアスファルトに、信号とオレンジの街灯が乱反射してて、ニコラスウェンディングレフンの映画みたい。写真に撮ってストーリーズに挙げたら、だいくんにほめられた、うれしい。

 

2月11日(土)

3ヶ月ごとの定期検診。これがけっこう楽しみな時間で、わずか10分足らずの診察の対話の中に、すごく芳醇なものが眠っていて、その体験のことについて考えるのが楽しいのです。ぼくの治療と闘病っていうのは薬以外、すべてこの主治医との対話によって行われうながされてきたわけで、ことばによって回復し寛解したといってもよいのだなあ。8年間、そのことばかりを考えてきた時間で、だからなのかこの数年の話すことをベースにした仕事が増えているのもうなづけるし、ぼくの本分は話すことなのかもしれない。

「ずっと12月〜2月が鬼門だったけど、病気をしてからいちばん穏やかな冬だったかもしれません」というと

「そうでしょう。ご自身で大崩れしないよう、調整ができてますもんね」

から褒めが続いてうれしい。情緒的なものを意図的に対話に挟まないようにしているぼくの先生だから、冷静で客観的な口調の中で褒められる。なのでそれが余計にうれしくさせるんですね。

2月12日(日)

忙しくなってきた。体がもぞもぞして、名古屋にいてられない気持ちになり東京に戻る。どこでも仕事ができるはずなのだけど、実家ではなかなか作業どころか執筆すらはかどらないのが不思議。実家は休む場所、と割り切って考えるのがいいのかも。

実家で回収した保坂和志『カンバセーション・ピース』、びっくりするくらいおもしろい。これを読んだのは高校野球を引退した夏で、読み直すとその時の自分ともう一度出会える感じ。「それにしてもカンバセーション・ピースってなんなんだ?」と思ってググると、こんなふうに説明がされていた。

主としてイギリスで用いられる美術史用語で,集団肖像画の一形式を意味し,次のような限定がある。(1)だれであるか特定できる複数の人物(家族や集団)が,理想化せず飾りたてない姿で描かれている。(2)私的な場に飾る肖像画で,寸法もそう大きくない。(3)画中の,少なくとも一部の人物が,互いに会話を交わしているか,なんらかのコミュニケーションを行っている様子で描かれている。(4)背景は戸外であれ室内であれ,画中人物の生活環境を詳細に表している。

で、ああ、昔もまったく同じ疑問で検索したなと思い出す。検索結果をおぼえてた。どうも頭の中では「ピース」が平和のほうに変換されがち。対話の平和、みたいに思いがち。