武田俊

2023.8.15

空中日記 #94|久々の回転卓

7月17日(月)

クロスポロのクーラーの不調、結局原因がわからないまま再度入院。
夜、『君たちはどう生きるか』を見に行く。レイトショーなのに最寄りの映画館はほぼ満員。とてもいいこと。冒頭の家事の中を進むシークエンスに驚く。揺れる炎と画面、主観視点の演出ってジブリでははじめてなんじゃないか? FPS的な画面。途中から、画面に登場する記号たちのメタファーとして役割について考えこんだりしてしまい、集中をそがれ、ああ、これではいけないな、こういう見方で「ストーリー」を見ていくようじゃだめなんだな、と気づく。あとはうねるような画面に、身を預けるようにした。アトラクションのそれのようにして。それがとってもよかった。

客電がつく。ひっそりとしている。みんな、うまく感想が言えないでいる。「あれってどういうこと?」「ぜんぜんわかんないんだけど……」そういう声がすこしして立ち上がっていき、どうかみんながその困惑自体を楽しんで、何か解釈にかんたんに決着をつけることなく一緒に見た人や友人と語り合えるといいな、と思う。

7月18日(火)

起きた瞬間から、全身がものがなしくメランコリー。それでなにかいいことをツイートした様子。

『ミルクの中のイワナ』のMTGをあさとくんとして、午後はたかくらととあるマンガ案件のMTG。ふたりでブレストして組んだプロットが、シナリオになっていてそれをもとに話したのだけど、かなりよくできていてあまり言うことがない。こういう時、若いころだったらなんとか自分が関与した意味を相手に感じてもらいたくて、無駄に手を動かしていた気がする。信任と愛情でもって、その作業をやめる英断をした。英断だなあ。

Netflixで『ゾンビになるまでにしたい100のこと』をなんの期待もせずに見る。シナリオに感じるところはなにもないものの、動きの演出とカット割にたいへんたいへんコーフンする。色彩構成もとても「今」らしく、これは引き続き見ようと思う。

7月19日(水)

「MOTION GALLERY CROSSING」久々の対面収録で神保町へ。やっぱり対面は全然違う。得られる情報量が格段に多いから、対話の展開も質も速度も、すべてが向上する。対話はライブだ。情報共有のための会話ならいくらでもリモートでいい。ただ、心をつなぎあわせて、出口のわからないまま、やりとりを積み重ねていく、そのプロセス自体がコンテンツになるのなら、圧倒的にぼくたちは出会ったほうがいい。

夜、みんなで中華。神保町の夜は早い。久々の回転卓、たのしかったな。

7月20日(木)

MEDIA DAY TOKYOってカンファレンスに参加してみる予定だったのに、体力なくやめにする。関係者のみなさんごめんなさいの気持ち。先週の自分の映画の試写会で、場をつくるのはほんとうに大変、とあらためて痛感したので、あらゆる催しものに真摯に向き合おうと思っていたのに、さっそくやってしまってひたすら自責を重ねてしまいダウン。

夜、『漁港の肉子ちゃん』を見る。めちゃくちゃいい! アニメーションを見るよろこびって、空間と運動の魅力だと思う。魅力的な空間をたくさん配置したショットと、あふれでる肉子ちゃんのエネルギーを変換させた動きに心が動きを取り戻す。そして、やっぱり脚本もよかったのでした。ラストカット、完璧すぎた。これはやっぱり原作の力だなあ、と思い、本棚から西加奈子のそれをひっぱりだす。表紙のイラストが本人作で、いいなあと思う。

7月21日(金)

昨日からの負の重力が抜けない。灰色のなりかけていて、泣く泣くあおいくんのライブをキャンセル。がんばって、申し訳ない気持ちを解除しようとする。Uberでマックを頼んで子どもの気持ちになろうとする。Netflixで『離婚しようよ』をこれまた期待せずに見て、とても楽しむ。観客の感情を、感動なら感動、シリアスならシリアスな方向へひっぱろうとするとき、それを極までひっぱり切らないで、笑い、で切る。その演出がとても心地がいい。ふとした違和感をもたらす笑いによって、ステレオタイプで安心な着地感を揺るがす。クドカンがやってきたことだなあと思う。このバジェットでこれをちゃんとにやるということ。安心をさせず、しかし誰かを置いていくわけでもない、ということ。それが商業的なフィールドの中で作家性を保つすぐれた技術なのだとしたら、『君たちはどう生きるか』である種の破断を選んだ宮崎駿はそれでいいのだよなあ、と思った。一回引退宣言をした作家の、延長戦なんだもの。

7月22日(土)

じゅんちゃんに、ぼくの悩みのあれこれをコンサルしてもらう。転機を迎えつつある仕事のこと、もっと自分のあれこれを発信して個人としてのプロップスを上げたいこと、本の執筆が止まっていること、釣りも柔術も技術を上げるべくもっと取り組みたいこと、でもそれには時間が足りないように思えること──。

じゅんちゃんはいつも通りペンを片手に話を聞きながら図解してくれる。そういうとき、目がびびびっとなっていて、このびびび、がぼくは好き。聞きながらどんどん図を描いて、そういうときの彼女の頭の中をのぞいてみたいと思う。

「診断結果」はすぐに出て、それは明白なものだった。いわく「すべてのアクションを本を書き続けるために有効かどうかで判断してみたら」とのこと。そうだよね、そうなんだよね、と簡単でシンプルなことなのに、あらためて発見したような気持ち。すべては本を書くためなのだ。本を書くためにふたりで掃除して、本を書くためにコーヒー豆を買いに行き、本を書くために扇風機を買い、本を書くために止まっていた1週間分の日記を書いた。

あいまにタトゥーのリサーチ。いわなのタトゥーを入れたくて、こういう時はpinteresがいい。あまりいいのが見つからない。それよりも先にセミコロンを入れたいことを思い出す。セミコロン=ふたつの文章をつなぐ記号、から転じて、自ら人生を終わらせてしまおうと考えつつも、それでも人生を続けたいと決意したひとが、そのタトゥーを入れる文化がある、と知ったのはもう6,7年前だ。早くいれたいな。

夜、小学校時代の友人から、子どもを持つならタトゥー入れるの気をつけたほうがいいよ、ママ友たちって探偵みたいでこわいのよ、ってDMが来る。いろんなことを感じる。そういう場所だから、ぼくは東京に出てきたんだよな、と思いつつ、でもそれは地場だけの違いではないとも思う。胸がざわつく。彼女はあくまで、心配をしてくれたのだ。ぼくが今、どんな場所で、どんな人たちと仕事をして、どんな生活をしているかを知らないまま、ただ自分が経験したあれこれから類推して、ただ心配をしてくれたのだ。だからお礼をいおう。そうやってDMのお返事をしたためたあとも、胸がざわついていた。

7月23日(日)

エアコンをつけないで寝たら、6時前に目が覚めた。そのまま起きて、昨日じゅんちゃんからもらったお告げに従って、すべてを書くことのための1日をはじめてみることにする。アイスコーヒーだけ入れて部屋へ。『青の輪郭』の執筆再開といきたいところだが、先に昨日の日記をまとめる。先日書いた妊娠についてのエッセイの続きがずっと頭の中にあるので、つづいてそれを書く。たぶん、ここまで2500字くらい。で、いったん止まる。

クロスポロのクーラーの修理が終わったので、とりにいく。帰り、久々の愛車、そうそうこのステアリングの重さ、このタイミングでのシフトチェンジ、このブレーキのあそび、そう、これ! というよろこびが全身を駆け巡っていき、ずいぶんこの車に慣れ親しんでいるのだなあと思う。慣れしたむとはなにか。道具の特性に対して寄り添うような身体感覚

夜、ベッドでじゅんちゃんと話す。
「赤ちゃんが生まれたら、柔術とかできなくなるのかなあ」
「そんなことないよ」
「でも、子ども生まれたらできないから、それまでたくさんやっときなとか言う人いるんだよ」
「いるよね、あれマジさいあくだよね」
「あんたとは違う人間だっつーの!でもさあ、やっぱり、みんな言うからそうなのかもしれないよね」
とここまで話していたら、じゅんちゃんがキリっとした表情で
「ぜったいに大丈夫!だって、赤ちゃん育てるのって、ぜったい昔のしゅんくんの面倒見るより楽だもん!」
と高らかと宣言され、ぐうの音も出なくて笑ってしまう。手間のかかるパートナーですみませんねえ。