武田俊

2023.9.14

空中日記 #99|久々のパッキング、山へ

8月28日(月)

朝走って、家で作業できない感じがして、午前中腐ってた。午後、車でスタバ。

『青の輪郭』15話について、これまでのぶんでがっちゃんこして、推敲してみようと思う。今回から全部の作業でデバイスorツールを変えてみようと思って、推敲はUlyssesにした。本来はタイプライターモードでががっと書いていくための場所にしてて、推敲には向かい気がしたけど、メモ機能をつかったらなんとかなる気がした。ほんとはScrivnerでやりたいけど、あの多機能すぎる上、なんかUIがしっくりこないアプリに習熟していく時間を持てない。UIが美しくないわけではない(美しいわけでもないが)。UIを評価する上での美しさって、意匠としての美しさだけじゃだめだと思うのだけど、多くの人がUIの評価軸を意匠の美しさに置いている気がしてる。ScrivnerのUIは意匠じゃない部分が、けっこう美しくないのだと個人的には思っている。

Ulyssesで切った張ったの推敲をしていたら、どぅーんとゾーンにはいっていく感じがした。何度も過去の風景を再生して、つまんで、こねて、ってしているとドラッグ的な快楽がある。自分がどこにいて、何をしていたかわからなくなる。

山下澄人『しんせかい』を読む。こういうふうに書けばよい。

8月29日(火)

にいみとSくんと歌舞伎町の川香苑にいく。ここは四川料理のお店で、昔よくつかっていた。Sくんの進路というか転職というかの相談に乗る。ピータン豆腐、豆苗、豚バラの豆豉とかで煮たの、雲呑、紹興酒。編集者って仕事についてあらためて考える。出版社じゃないところでワークする、「編集」って技術について。大企業の中だからワークする「編集」について。

相談を受けるのは好きで、それは自分の経験や知識が自分自身でないまったくの他者に対して、なにかいい影響を及ぼしうることがこの世にはあるのだ、ということを確認できたりするからだ。たぶんそういう感覚で、にいみも(特に後輩からの)相談を受けることを大事にしていると思う。大事にすることは大事で、でもその行為自体が自分にとって楽しくて、救いがある、ということがじつはいちばん大事だと思ったりもする。

ここでまだ21時代とかだったので、にいみとふたりでイーグルに行く。今はなき昴がぼくはほんとうに大好きで、20代前半の頃から、よく使わしてもらっていた。2010年代のどこかからか、イーグルが安くすてきな雰囲気で飲める、みたいなことで若者がどん増えていて、それがいやで昴にひっそりと行っていた。当時、バランタインがたしか300円とかで飲めた。

地下に降りると、かつて昴で出迎えてくれていたスタッフさんがいる。全然変わりがない。当時もおじいさんだったけど、今も同じくらいのおじいさんだ。ぼくのことはどう見えるんだろう。オールドをソーダ割、ふたりの蟹味噌バター、にいみはキューバリブレを頼んだ。
「キューバリブレにダイエットコークを使って、っていうの『未必のマクベス』だったっけ?」
「そうだよ、その気分で頼んだよ」
「ここのは──ほら、ペプシだね。ノーマルのペプシ」
そういって、カウンターの隅に見えていたペプシのロゴを指さしてみせた。

久々にいろいろ話し込む。『ハンチバック』のはなし、仕事のはなし、最近のABEMAの話、アンダーグラウンドな新宿っぽいはなし。固有名詞に気をつけて、声をひそめたりする。その感じがとても懐かしい。20代、そういう世界のはなしをする時、どこか心が安らいでいた。こわいなと思いつつ、自分が交わらない世界の、表とは違う力学でつくられている世界の存在と、そこで暮らすひとたちのある種の寄る辺なさは、ぼく自身が普段から感じているもののそれと似ている気がした。中心点があって、そこに目がけてがんばって進んでいこうとする人たちがいて、その同心円上に、階層が生まれる。そのこと自体に疑問を感じたり、「え、そこ別に中心じゃなくね?」という感覚で、円から離れる。そういう時に、対角線上の逆の極に、そういう世界があったかもしれない。いや、むしろこちら側のすぐそこだったのか。

帰路、頭が興奮していた。普段からブロック崩しみたいに脳内を飛び交っている言葉たちの、勢いと鋭さが増している。心地よくもありつつ、攻撃的になりやすい危険を感じる。電車を降りると女の子ふたりが駆け寄ってきて、「ほら、AirPods忘れてますよ!」と肩を叩かれたから、反射的に「すみません、ありがとうございます!」と受け取る。電車の扉が閉まって、今日AirPods使ってないことに気づく。手に取り蓋を開けると、肝心のイヤホンが入っていない。そうか耳につけたまま、ケースを忘れていったのか、と思う。

後方に何かを探すようにうろうろしているおじさんがいて、彼の持ち物か、と思うも、声のかけ方に迷う。AirPodsなんて持ってないひとに「これ、お探しですか?」と聞いたら、持ってないひとでも「しめた」と思って、受け取りかねない。そしたらこのほんとうの持ち主がかわいそうだ。そう思って、改札の前でiPhoneを触るふりをしながら、そのおじさんが近づいてくるのを待った。ふらふらと所在なさげにやってきた彼の耳には、何もはまっていなかったから、駅員さんに預けることにした。

山下澄人『鳥の会議』を読む。暴力とピュアネスが同居する空気感が、今の気分とあってる。境遇は違えど、こういう形で暴力が機能する場所に自分もいたし、そういうふうに自分も暴力を行使した経験があるのだと思う。一人称他視点的な語りが、混乱とともに心地よさと、かなしい連帯を生んでる。すごい。ラフなのにテクニカル。町田康の解説がすばらしい。

8月30日(水)

気力なし。全然机に向かえない。読めない書けない動けない。
結局ノジマで買った新しいオーブンレンジが、やってきた。白物家電が白いのがいやで、うちは冷蔵庫もドラム型洗濯機も全部黒い。このオーブンレンジは濃紺で、やっとすべてのパーツが白じゃなくなった。設置して、晩ごはんにこれで何かを調理したいと思い、ガイドブック的なやつについていたレシピで、肉じゃがをつくってみる。電子レンジで調理をしたことはほとんどない。レシピの時点で、はて、と思って、なんか水が多い気がする。けど、従ってみる。レシピに従って調理をすること自体が久々で、化学だ、と思う。

20分くらいしてできあがる。わくわくとふたりで見る。できあがってない感じがする。水が多い。
「これって、素材?」
そういうとじゅんちゃんが笑った。
肉じゃがと呼ぶにはふさわしくない気がして、きもじゃがと呼ぶことにする(ちょっとかわいそう)。肉じゃが。大学のときから、それを男のためにつくろうとする女の子や、そんなコンテクストがきらいすぎて、肉じゃが自体を遠ざけてきた人生だった。目の前にあるのは、理想より水分が多い、きもじゃが。食べる。ちゃんと肉じゃがの味がする。こんどは水、もう少し減らしてみよう。

Netflixで『LIGHT HOUSE』を見る。星野源も若林も基本的には関心がなくて、でも「この人までほめている」と驚くようなひとたちもこの番組に好意的だったから、観てみようとしたのが先週末。高円寺の4丁目カフェが舞台で、なつかしい傷をいじられる気持ち。出だし、若手時代の話が展開され、えーこの感じでトークが進むとしたら、とうてい見てられないや……となりあきらめた。そのあとじゅんちゃんがひとりで見たらしく「や、あの後からよくなったよ!見るといいよ。私たちが普段しているような会話だよ」というので、見た。その通りで、楽しく見られた。ポピュラーなものを楽しく見られると、なんだか安心する。

夜、おくむらとひさびさにいろいろ話す。
コロナに恩恵があるとすれば、離れていてもzoomやmeetで「会う」ことが普通になったことだ。子育てのこと、仕事のこと、編集者としてのキャリアとこれからのこと。なんか最近そういう話が増えてきた。みんなこの年になって、企業に所属していないフリーランスor経営者たちが、身の振り方を考えている。この年になってぼくたちは、いくぶん自分たちの弱さを出せるようになったり、競争原理の外側の価値を正しく理解しはじめているから、未来のことを真摯に考えれるようになっている。そのこと自体を言祝ぎたいきもち。

一緒にやってみよう、というものの道すじが少し見えた。

8月31日(木)

明日からの上映に向けて、久々のパッキング。

9月1日(金)

ミルクの中のイワナ』を山梨県漁協連合会さんで上映してもらうので、あさとくんと一緒に行く。漁協連合っていうのは、文字通り、県内の漁協の連合で山梨の甲斐市にある。2台でいっても不経済なので、朝6時半に迎えにきてもらう。久々のことで、この映画のきっかけになったぼくのはじめての渓流釣りのことを思い出す。

カーシェアの車で迎えに来てくれたあさとくんとはじめてあったのが、2022年の5月2日で、その日の帰りの車中で「じつはさ、ずっと考えてるアイディアがあるんやけど、聞いてくれる?」って話されたのが、この映画のはじまりだった。日づけを正確にすぐ呼び出せるのは、この日人生ではじめて釣ったヤマメをうれしそうに持つぼくの動画が、カメラロールに保存されているからだ。そこから1年ちょっとしか経ってない。1年経ってぼくたちはそれぞれに車を持った。去年の秋口からはじまった毎週日本のどこかに行く、というロケの結果、車ってあったほうがいいよね、って痛感しあったんだった。

8時半に会場について、設営。音楽をつくってくれたyosiさんがつくってくれた、小型のかわいいスピーカーをつなぐ。小さいのにものすごくいい音で、音が一粒ずつ際だって聞こえるのだ。映画館で見るのもいいけど、このスピーカーでの自主上映は、それはそれで特別な良い体験だと思う。この日から3日間、10時からと14時からの2部上映をしてもらう。せっかく来ているので、上映後、簡単にあさとくんとごあいさつのようなトーク。

明日釣りをする場所をだいたい決めて、車でリサーチに出た。久々の山道。ここから入渓しようというところを決め、旅館にチェックインしようと向かうも、なかなかつかない。道が入り組みまくってて、何度もここ、という場所を通り過ぎてしまう。最終的には看板が見えてるのに、到着しないまでになって、すこし怖い。やっとの思いでつき、先にごはんへ。周囲は住宅街で一件だけ居酒屋があって、そこは静岡おでんと原始焼きが売りだという。山梨で静岡おでん。原始焼きって、これまでの人生で何回か目にしたことのあるものだけど、それが何かはわからない。エキストリームな炉端焼きみたいなもの? 入ったらぼくらの2席で満員になった。めちゃくちゃおなかがすいている。中瓶、大根、卵、牛すじ、豚キムチ、鳥のユッケ、とびっこのかかった大きなサラダ、ほかにも何か、あさとくんはおにぎりも。途中で黒霧ソーダ。食べものを頼みすぎている。久々にふたりで、話し込む。去年はロケのあいだ、ずっとこんな時間があったんだなあと思いながら。

あさとくん、連日たまった疲労で寝てしまう。電気を消してひとりで大浴場に行った。従業員用とおぼしき脱衣所で、若いスタッフのひとが、うなってる。腕立てか何かをしているようだった。

9月2日(土)

4時半に起きたらあさとくんはお風呂に行っていた。戻ってきて「4時前には目が覚めたんよ。アラームかけなくても釣りなら起きれるんやで」といった。久々の渓流。かちかちのロッド・ラグレスボロンとPEラインを結んだカーディナルC3でゆく。入渓ポイントについて用意をして、最初のルアーを何にしようかと思っていると「しゅんくんに使ってもらいたいルアーがあるんよ」という。あさとくんが渡してくれたのは、『ミルクの中のイワナ』オリジナルルアーとしてビルダーさんにつくってもらっているもので、そのプロトタイプだという。ミヤベイワナを模したブルーが美しい。これでなんとしてでも釣りたい。

渇水の時期だから、支流よりも本流がよさそう、という見立ては悪くなかった。けど、上から見たときより川の流れは強い。借りたルアーを投げてみる。自重はあるみたいで、この感じは4.5gくらいだろうか。飛距離はしっかりでるけれど、思っているより沈下速度が遅い。そっか、ハンドメイドのバルサルアーだものね、と思う。なにげにはじめてのバルサルアーなのではないか。やっぱり、ほしい速度で沈まない。流れが強いから、通したいレンジに到達する前に、ルアーが手前に届いてしまうのだ。浅場で動きをためしたら、ぬるぬる動いてかわいかった。

しかし渋い。バイトどころか、チェイスもない。魚の陰が見当たらない。だんだん心に陰がさしてきて、キャストが雑になってくる。途中から慣れてるメテオーラに変える。ザ・ポイントみたいなルートを通しても反応がないので、これはこの夏たくさん人が入り続けてるんじゃないかなあと思い、小場所に切り替える。ほんの小さな岩の裏をちょいと通すと、背中がまっくろのイワナがいっぴき飛び出して、ひゃお、と声が出た。もう一度通すとバイトして、フッキングにも成功。手前に寄せていると、いきなりこちらに向かって走り出したのでばれた。バーブレスフックなので、しかたない。頭がかーっとなって、でもそれは怒りとか焦りとかと違って、いちばん近い感情を想像したらティーンのころの恋愛に近くて、身が壊れてしまうかもしれないような、恋しさに近かった。相手はいわな。遡行しながら、「ここだ」というポイントではない、「ここにもいるかも?」というちょっとマイナーで不人気なところを探す。たぶん今日は、そういう場所にしかいられないような、そんな魚しか反応してくれない日だ。そう思って投げた場所で、またまっくろのイワナがかかる。ばれないように、寄せるときのリーリングが雑になる。ネットを使わず地面にあげてしまって、ごめんよ、と思う。顔が短いへんな顔のイワナだった。かわいいと思った。うれしかった。じっくりと見て、それでリリースした。

帰りは同じ川を降りていき、前日に一緒に買ったやすーい延べ竿ではじめてのミャク釣りに挑戦。ハゼのミャク釣りのことを思い出しながら、「どうせエサなんだから、入れ食いでしょ」と思うも、アタリすらなし。ミャク釣り甘くない。車まで戻る途中、GARMINが「今日はじゅうぶんに運動してるから、はやく休んで」的なアラートを鳴らした。

日帰り温泉入って、あさとくんのスタイルで3セットサウナして、かつ丼たべて、畳の休憩所にごろんとした。さっきまで体中に流れた汗から水分が減って、濃くなってべとべとしたものと、森と山のいろいろが混ざった、まだ新鮮なけもの、みたいなにおいがきれいにとれて、さらさらの生まれたてのからだになって、世界でいちばんしあわせ、のような気分になった。でも、しあわせは誰かとくらべるんじゃない。気がついたら30分くらい寝てた。

(旅の日記は長くなるなあ)

上映後は今日も漫談形式のトーク。土曜日。ほぼ満席のお客さんから、万雷の拍手をもらう。
「ちょっと質問があってね」と言いながら、ずっと感想を話し続けてくれるおじさん。そのおじさんの感想を早く終わらないかなというムードを出しながら挙手し、「私は手短にしますが」といいつつ、そこそこ長く話してくれるおじさん。何か言いたい、伝えたい。そういう思いに映画が火をつけたみたいに、対話が生まれて、何よりそのことがうれしい。やってよかった。来てよかった。

興行として映画の一般的な指標は、興行収益であり、観客動員で、大きな映画は個別の観客の体験や物語が、全国で無数に生まれている。その個別の物語にまで制作者がたどり着くのはきっと至難のわざで、それよりもいかに回収できるかがやっぱり大切になるのだろう。仕事だし、ビジネスだし。

『ミルクの中のイワナ』は仕事ではない。作品だ。誰からも借金せず、あさとくんとぼくの資金でつくった。だから最悪回収できなくても、誰も倒れない。そういうつくり方をしたから、こうやって、自分たちができる限り出向いて、観客との対話の場をセットで上映を中長期的につくっていける。それで食べていこう、としないからできる自由度の高い座組。その幸せを感じながらも、興行と自主制作のふたつがはっきり分かれてしまうのは、さてどうなんだろうと思う。そのあいだを、豊かにつないでいくようなことができたらいい。

9月3日(日)

たくさん稼働したから、今日いちにちを休みにすることになんの引け目もなくて、こういうふうに休むために、ウィークデイ、追い込みすぎずに、でもやりきる、みたいなことが自分にとって幸せな気がする。1日、徹底的にだらだら。