9月25日(月)
午前中にふと思い立ち、テキスト生産表ってのをつくってみようと思う。フィジカルのノートに書いた文字数をまとめてはいるものの、それをもっと一覧したいようだった。スプレッドシートに日付と、その日『青の輪郭』を書いた文字数、今書いてるエピソードの累計文字数を出せるようにしたら、その日書いたトータルの文字数も知りたいと思い、空中日記やニュースレター、その他のエッセイなど、およそぼくが書きうるバリエーションのテキストのカテゴリを列にして、総計を出せるようにした。あれ、これってもはや認知行動療法じゃねと思ったので、その横に調子って列、最後にあったことなど書ける備考欄をつけたら、とってもいい表になった。これで午前が終了。
正午から新規PJの発注のためのMTG。
どうもこれで認知資源が枯渇したようで、野菜炒めをざつに乗っけたサッポロ一番のみそラーメンをつくって食べたら、なにもできなくなったので呆ける。16時すぎて、よし、書こうとpomeraに向かったら書けなくなっていた。いろんな方法を試してみてもだめで、よく陥る「こんなの書いて誰が読むんだろ?」のループよりもつらい、「誰かが傷つく可能性のある昔話に耽溺して、うっとり書いているキモいぼく」のイメージがこびりついて、剥がれない。
かなりくるしい。どうしたらいいのかわからず、たかくらにLINEする。誰かに知ってほしい、反応してもらえるだけでもありがたい、と思って、Twitterとストーリーズにも同じものをポストする。ふとんに入っても4時くらいまで眠れなかった。
9月26日(火)
書くこと自体の罪悪感、のようなものが起きた直後にも全然残ってる。たかくらからLINE返ってきていてはげまされる。ストーリーズにも昔からの友人からのメッセージが届いている。それでも動き出せないから、『宮本から君へ』を久々に読み直す。20代、なんどもなんども読んだ。あの時期これが一つの支えで、ひとつひとつのコマから、そのときの自分がどんなふうにこれを読んでいたのか、過ごしていた場所、そのときの空気のにおい、いろんなものが思い出される。
古い友人からのメッセージには「武田くんは過去のことを今のように思い出せるんだね」と書かれていて、それはうれしくて、でもぼくの実感とはちょっと違ったから返信した。
「なんか過去が昔になって、リニアに今とつながっているというより、ぼくは過去と現在が混ざっているようなとこにいつもいるみたいで、だから書けることもあるのだけど、だからくるしいこともあるみたい。トレードオフ」
そう返信のメッセージを書いていて、というか書かれていてという印象の方が強くて、これを自分で書いたのか、と思ってはっとする。
じゅんちゃんと話していたら、インスピレーションボードのようなものをつくるといいということになって、大きなサイズのスクラップブックを買ってきた。miroでやろうと思ったけど、できるだけデジタルのものを、PC経由で参照することを減らしたいからフィジカルで。
『宮本から君へ』を定本の3巻まで読んで、そのあいだずっとドキドキしていた。伊藤絵美さんの『カウンセラーはこんなセルフケアをやってきた』を読む。煙草のこと、ゲーセンのこと、競馬のところがおもしろい。人の特性やある種の脆弱性と、そのひとなりのそれらへの向き合い方や対策はいつ読んでもおもしろい。
たくさん言葉が頭の中に出てくるようになった。でもどれも『青の輪郭』の中には入らなくって、いろいろ書いたり、こねたりしてる。ツイートたくさんする。夜は正式なレシピで四日市とんてきをつくった。ケチャップとか入れたらぜったいにだめです!
夜、資料としてアニメ『PSYCHO-PASS』のつづきみる。日記で書き忘れていたけど、先週くらいから毎日見てる。
9月27日(水)
朝、大学病院。目の経過は順調そうで、でも原因はわからない。次回は3週間後。
9月28日(木)
今シーズンの渓流をしめるべく、ゆうたろうと鶴川にいく。いつものコンビニに4時半に待ち合わせて、食料とつり券を買う。ヤマメの川だけど、ぼくがあさとくんに連れられてはじめて渓流釣りをしたのがこの川で、毎年ここではじめてここで終わるっていうのもオツだと思う。
5時半入渓。魚影は濃いけど、ぜんぜん反応しない。かろうじて一投目で途中までチェイスがあっても、すぐ見切ってその後はうんともすんとも反応しない。禁漁直前でむちゃくちゃ人が入っているのかもしれない。途中、新しめの足跡を発見する。しかもなぜか川を下っている。これが今さっきできたものだとして、ほぼ日の出タイミングで入ったぼくらより先に下っているとしたら、それは川辺でキャンプかビバークみたいにして、暗い内から釣り下がったということなんだろうか。それだったら、もう今日はだめじゃん、と思って、なら先を急ごうと藪を進んだ。
急ぐとき、心が体を置き去りにして前へ前へと進むから、つまづく。深い藪だ。何がどうなってるか見えない藪だ。つまづいた先には、古くて錆びついた細いコの字型の鉄骨が、こっちを向いていた。そこに左膝から突っ込んだ。しびれるような熱い衝撃が走って、目をやるとウェーダーが裂けて血が噴き出していた。あーあ、とウェーダーが裂けちゃったことにまず落ち込み、小さいわりに思いのほか深い傷に落ち込み、圧迫して止血する。
時計を見る。7時すぎだ。まだ2時間もやってない。これで今シーズン終わりたくない。それで進むことにした。足はまだ動いた。けど、膝下の水深で水がウェーダーに入ってくるのだから、これはかなりやっかいだった。途中から、犬がおしっこをするみたいに左足だけ高くあげると、空いた穴から水が抜けることに気がついて、「コップ」になった足をそうやって都度都度もとに戻した。
水量が多くて1カ所、どうしてもはげしめの崖を高巻きしないといけないところがあった。急斜面の腐葉土はこわくて、ズボッと沈む。そこをなんとか越えた先には、ロープが取りつけてあったから、なんとかそこまでいけば安心に思えた。下から見る限り、竿をたたまなくてもいけそうだ。
それで登ってみたら全然だめだった。想像以上の急斜面で、うまく足を効かせないと、腐葉土ごとすべっていきそうだ。6,7メートルくらいの高さで、下はごりごりの岩。落ちたら一発だな、と思うと膝が笑う。なんとか少しずつ進んでロープのところまできた。もう大丈夫そうだった。釣り歩いていると、アドレナリンが出てるから、気づけなかったけど、でも左足は痛みは感じないものの、もうほとんど踏ん張れなくなっていたようだった。それでロープをつかんで最初の一歩目でふらつき、あわてて両手でロープをがっしりつかみ直す。そういえば、亜脱臼してから左肩、ゆるいんだった。そこに体重の多くがかかって不安になり、とっさに荷重バランスを整えるためにすばやく体勢を変えたとき、ぱきん、という音がした。なおしたばっかりのロッドがまっぷたつに折れていた。
川から上がったら、びっこを引かないと歩けなくなっていて、それでも渓流ですごす時間はうれしい。来年はこういう失敗、ほんとに減らしたい。いのちだいじに。
9月29日(金)
傷口発熱てんでダメ。からだも心もぐったりで、20時くらいにふとんに入った。すぐ寝た。
9月30日(土)
同窓会に出席したら、なんかナイトプールみたいな会場で、すごくいやらしいことがたくさん行われていて、おおお、すごいぞ、という夢を見て起きた。5時だ。体にダメージがある時って、なぜか卑猥な夢を見る気がする。
いろいろ眠れなくなって、伊藤絵美『カウンセラーはこんなセルフケアをやってきた』を読む。あらためて、自分の症状を鑑みるに、トラウマとそれ由来のフラッシュバックには、うまく対処できるようになってきた。これ、たぶんそのトラウマの発生のシーンを『青の輪郭』で書けたからだと思う。蓋をするのではなくて、そこに入っていって描ききることで再解釈して、別の形で決着をつける。舞城王太郎『熊の場所』である。そういうことが完了してから、フラッシュバック自体もかなりおこらなくなった(と書くと最高な治療法に見えるかもだけど、書いてるあいだじゅうフラッシュバックし続けるし、机に向かおうと思うだけで膝は震えるし、かなり危険なことをしていたと思います。しばらく希死念慮もハンパなかったし、あまりおすすめできません……)。
けれど、トラウマ発生時にそれに対処するために防衛機制的に身につけたさまざまな技術や考え方が、その後のぼくを結果的に生きにくくさせているのはたしかで、それが自己肯定ができなかったり、相対的に人と比べ続けたり、ほかにもいろんな諸問題があって、それはおそらくスキーマと呼ばれるものなんだろう。スキーマ療法にトライしてみたいなと思い、すぐ伊藤絵美『自分でできるスキーマ療法ワークブック Book1』をAmazonで注文した。
朝、近くに見つけた外科もやってるクリニックに行く。メインは肛門科みたいで、粘膜も皮膚も似たようなものだからいいでしょ、と思っていく。とても混んでる。自分では歩行困難な巨大なおばあさんがいて、彼女が少しでも動きやすい導線を確保すべく、待合室で3回位置を変えた。パンチパーマみたいなパーマのおじさん先生は老人たちに慕われていて、かれらは診察にたくさんしゃべるから、時間がかかる。そこに時間をかけるべきだ、という感じでかけているのがわかる。ぼくの番がきた。一通り症状と状況を話すと、ぼくが自分で貼ったキズパワーパッドをさして「それが悪さしてるな」という。湿潤な空間は自然治癒には最適だけど、もちろん細菌も繁殖しやすい。だからキズパワーパッド的なものを使うときには、消毒薬は使わないで(そうすると体の組織にもダメージが加わる)、ていねいに洗ってから貼る。けれど刺し傷の場合、深いところを洗うことはできないから、そこに残っていた菌が繁殖している、らしい。
通気性のいいガーゼに張り替えて、破傷風の注射も打ってもらう。破傷風は1週間潜伏して、大人でも発症したら30パーセントで死ぬらしい。こわい。注射してもらって安心、と思いつつ、これいま打つのでまにあうのかな、とふと思う。気づかなかったことにしよう。抗生物質と痛み止めももらって、そしたらひとあんしんという感じで、うつっぽさが体から抜けていった。
世界がきらきらになって、じゅんちゃんに「世の中ぜんぶがエンターテインメントだね!」「ぼくと関わるひと全員が、しあわせになってほしい!」という気持ちを即興のオペラに乗せて歌っていた。じゅんちゃんは「ああ、この人やばいわ」といいながら、でもこれはいつものことだから笑っている。
活字にすると、ぎょっとしてしまうような変化だけれど、その都度ぼくは完璧に100%そう思って、歌っている。心から、この世界は希望に満ちていて、みんながしあわせになってほしくて、そのために何かをただしたいと思って、バルコニーの方に向かって高らかにオペラを歌ってる。何もずれてると思わない。それはうつの時でも一緒で、完璧に100%自分は無能で人を傷つけるしかできない存在で害悪なので今すぐ消えてなくなりたいって思ってる。どっちも本当で、瞬間的には筋が100%通っている、という情緒のあり方。
時間はまき戻って昼、病院の帰りに買いものして、帰って残りのおかずを袋ラーメンでもつくってのっけようと思ってたら雨降ってきて、20分で止むというから、そこにあった店でうどんを食べた。おいしくないものがおいしいときがある。たとえば今日の冷えたとり天とか。
帰宅して、いろいろやりとり。高まってきて、ニュースレターを出した。
夜はあげないからあげというものをつくる。下味つけてかたくりこつけて皮目をじっくりと焼き付けることで、でてきたあぶらでもって、火を通すという仕組み。とてもおいしい。ふつうのからあげより好きだ。
根尾くんが先発して、また抑えたけど勝てなくて、なのに最終的に勝って、なぜか最下位脱出をはたした。まったく今年のドラゴンズはわけがわからないな。
夜、電刃があたらしくやるイベントの最終ラインナップとタイムテをTwitterで見かけて、それがとても懐かしくよかったので「すばらしいなあ」とRTすると、点線さんから引用RTの形でお返事がきた。10年前、最後の電刃となったイベントのレポートはぼくが書いていて、それが唯一の当日のアーカイブとなっていること。今回DOMEを企画するにあたって、どれだけぼくの当時の記事に助けられたかが書かれていた。
ぼくはそのときまで自分がレポート記事を書いた記憶が抜けていて、それでも読み直して見ると、その日、どんな順番で代官山UNITとUNICEをかけまわって、各アクトのパフォーマンスを味わいメモをとったかすらまで思い出せた。写真はKAI-YOUのみんなで手分けしたものを使ったはずで、だから集合知的にできあがったこの記事は2013年のムードそのものがむんと満ちていて、それを点線さんは「保温する記事」と評してくれた。
10月1日(日)
抗生物質と痛み止めで足の具合がずいぶんとよくなった。もうほとんど運動できるような状態な気がするので、新代田でひらかれている「Books&Something」に行こうか悩む。この間つくったテキスト生産表をひらいてみてると、この2,3週間調子の波がかなり激しく4~-4を行き来していて、思い切って出かけないことにした。
自分をどうつくり変えられるか、それを今年は少しずつ試しているのだと思う。1度転んでもすべて投げ出さず、小さくてもまた明日つくり直していく。よくやっていると思うけど、まだ全然かっこいいと思えない状態。それでツイートをしたら、おもしろいフレーズが出てきた。
今の自分は現在によく対処し、新しい自分のあり方を作り直してると思う。編集者から作り手へ。すべての仕事をある種の副業ととらえてゆく意識、その下準備中。けど、かっこいいとはまだ思えない。…
— 武田 俊 / Shun TAKEDA (@stakeda) October 1, 2023
すべてを副業化していく。なるほどね。自分の中にひとつの軸を持って、その出力先はたくさん用意していく。出力先に序列や主従関係をつくらない。全部フラットで尊い場所だと考える。この考え方で、つくり直したい。
オルタナティブ編集者メンバーのグループで、下半身の筋肉が教養、それを世間とつなぐのが体幹、多くの人が見ている場所で戦うのが上半身のパンチ。で、こう進んでいこうというラインが文脈。時たま打ったパンチに人がたくさん反応するけど、下半身を使えてないパンチはある人たちには簡単に見破られる。偶然当たって支持されたラッキーパンチを、もう一発もう一発と考えていると完全に手打ちのパンチになっていて、見ていられたもんじゃない、というたとえ話をして、きれいにいえてはいない気がするものの、自分ではしっくりくる。