武田俊

2024.1.3

空中日記 #107|毎日うまれたての一日

10月23日(月)

雑誌の原稿をやっつける。nottaでやってもらった文字起こしの精度が、思ってたより大分低い。ほんとうならnotta→chatgptできれいにしてもらって、それをベースに組んでみたら楽しそうだと思っていた。今回は雑誌なので、本文が短いから、取材時のノートを中心に組み立てて、エビデンスや口調や流れを文字起こしをリファレンスに考えればいっかと思い直す。文字起こしデータが3万字弱あって、1時間のあいだにけっこうしゃべったなあと思う。今回の本文は1000w。そのほかにキャッチやキャプションもつくっていく。文章のパーツをつくってまとめていくのは、久々のこと。そしてこれがなんとも楽しかった。素材をこねて、釜で焼いて、焼き上がったものを彫刻していく感じ。

いったんこんな感じかな、という形に仕上がったものを送稿する。こういう仕事って、送稿って感じがする。自分はひょっとしたら編集者よりライターとしての適正の方が高いのかもしれない。編集者とライターの差異はどこにもっとも現れるか、といえば、編集者がメタな労働者であるのに対して、ライターはいつもベタに、つまり現場に属している。駆け出しのころ、先輩に「はやくライターじゃなく、編集になれよ」といわれていて、これは早くメタな立ち位置で、仕事やお金をひっぱってこれるようになれよ、という意味だったかと思うのだけど、そこにはシンプルな構造以上の、編集者の方が上位ジョブである、というムードが含意されていた気がする。それをベタに受け取ったぼくに、そのムードは引き継がれていて、名刺にライターと入れないようにしていたくらいだった。

そのあとぼくは編集になって、会社をつくったり、いろんな媒体の編集長を掛け持つほどたくさんやったりすることになるが、そのときのモチベーションが何だったのか。おそらく、自分がいいなと思うライターやフォトグラファー、まだ駆け出しでもセンスが光りまくってる友人たちに仕事をつくりたい、彼らのすごさを世に知らしめたい、という欲望だったはずで、それをエネルギーに動いていたから、ちっとも自分自身のことなんか見ていなかった。きっとほんとうは、ぼくもテキストを書いてそれを世の中に見てもらいたくて、だからぼくが1番仕事をつくってあげるべきだったのは、書き手である自分自身だった。

夜、アーリアクセスで今日からプレイできる『UFC5』をやる。ちょっとやるつもりで、3時間やっていた。怖い。新しいキーコンフィグだと、アッパーがR1+△or□になってて、これは前作のオーバーハンドのキーだ。これまでのアッパーが□+×で、これが今作だと相手を掴んで首相撲に進ませるためのキーになってる。ダッキングした相手に下からアッパーを突き上げようとするも、首相撲をしかけることになっちゃって、するとかがんでいる相手には空ぶるわけで、大きな隙ができてカウンターを何度もらう。早く新しいキーに慣れたい。グラップリングのシステムはさらに複雑になっていて、これも慣れたい。初心者向け簡単操作モードみたいなのもあるが、それはMMAに対しての冒涜な気がするから鍛えたい。前作は結局1000時間近くプレイしていたみたい。今作、新システム以外は正統進化って感じで、ストレスのかかっていた場所がだいぶなくなった。

10月24日(火)

朝、原稿整えて送ったあと、執筆に入る前の助走で『火の鳥 鳳凰編』を読んだら、ここまでの『火の鳥』にずっと通底している男性の加害性みたいなものにあてられて落ち込む。できるかぎり自分の中の男性性に由来する加害の因子を消していきたいと思ってはいるものの、この性の持つ特性に由来するさまざまのものがある限り、完全に消せないのだと実感していて、それならもう男を辞めたいな、とばかり思ってしまう。どうしようもない完全主義者的な感覚。

午後えいやで外に出て、どのカフェで書くか迷ってカフェドクリエに行く。何も特別なことのない場所だけど、名古屋にいくつもあったからか、落ち着く気がする。夜は麻婆豆腐をつくった。麻婆豆腐は調味料、それらを入れる順番など、細かなところでいくらでもこだわることのできる足し算的な料理だけど、お家なんだから手軽さとおいしさのバランスを取りたい。Youtubeで調べてみたら、コウケンテツのレシピがちょうどよくてまねする。それでも合わせ調味料をまとめてつくるのはいやで、自分なりの量でにんにく、豆板醤、粉唐辛子、甜麺醤、オイスターソース、鶏ガラスープを加えていった。木綿豆腐をきらないで、そのままぼんと中華鍋に放り込む。それを少し崩すようにして混ぜ合わせるように炒め煮てゆくと、崩れた表面積は広いから、たくさん味が染みこんでいくっていう寸法だよ、という、小さな工夫が楽しい。生活には小さな工夫の楽しさが大事。豪華で豪勢な楽しみにより、小さな特別がいい。その連なりで生きていけるというもの。

10月25日(水)

午後、肩の病院のために板橋までゆく。ここは田中まーくんとかを見ている、日本で1番肩肘関節にくわしい菅谷先生の病院で、2年前パーソナルトレーニングをしてもらっていたあきらさんに紹介してもらって出かけているところ。亜脱臼のその後、保存治療しても痛みが残っていてオペがいるかの判断として、肩関節に生理食塩水を注射して、MRIを撮るってやつをやる。こうすると、靱帯の様子が見えやすくなって評価しやすいようだ。こういう時に評価ってワードを使うのだなと思う。

5センチくらいある注射器の針と大きなボディに慄く。注射は看護師さんじゃなくて、先生がしてくれた。きっと痛いんだろうなあ、とこれまでに筋肉に注射された経験を思い出して備えていたけれど、それよりずっと痛い。鋭くはない、重い痛みがずーんと深いところまで入っていて、そのあと生理食塩水が押し込まれていくと、冷たいような熱いような形容しがたい不快感がやってきて、関節のあいだを押し広げていく感じがする。これは生きている上での不快感の中でもかなり高い。注射し終わると、生理食塩水が入ったぶん、マージンが生まれた関節がゆるゆるで、外れそうで怖い。

夜、中目黒。早く着いたので蔦屋書店に行くが、中目のここはもうほとんど書店としての役割を担っていなくて、本を探すことが不可能なので、中目黒ブックセンターに行く。そこで文春文庫のポスターが貼ってあって、上白石萌音が青い服を着て、手でハートをつくっていた。最初手に見えたそれは、よく見ると文庫本だった。文庫をノドのとこからぐいっと折り曲げてハートの形にして、こちらに向けているのだった。不意打ちのように胸がくっと痛くなって、いや、なんで書店に展開する文庫キャンペーンのポスターで、こんなことをするんだろう、と思った。

文藝春秋社もこの広告に携わったクリエイターたちも、上白石萌音まわりの大人たちも、よくわからないし、イメージを作り出す仕事の人たちが、書店でこれを掲示するときにどんな受け取られ方をしうるか想像できてない意味もよくわからないし、想像した上でこれならば、それはどういうことなんだろうと思った。多くの人がこれを書店で見て、何も感じないのならば、もうぼくは自分の感受性をどう考えたらいいのかわからないな。そう思ってツイートしたら、伸びてしまった。本の話題で炎上したことがあるので、ちょっと気にしながら鳥の鍋を食べた。

10月26日(木)

夜、新宿三丁目。詩人ふたりと劇作家ひとり、そしてぼく編集者ひとりの会。最近、夜出るのが多いのは、赤ちゃんが生まれる前に会える人にはあっておこう、という考えか。そこで想像の斜め上を行く話を聞いてしまい、ずっと考えている。文化・芸術に携わる人たちが、もっとヘルシーに仕事をしていくには、どこから手をつけたらいいのだろう。
件のツイートが1万いいねを越えてしまい、紛糾している。Twitter、1500いいねがついたあたりから大体いつも投稿主への人格攻撃がはじまる感じがする。1万とかになると、とにかく何でもいいから一言いおう、というようなリプが増えてきて、おそらく収益化プランがはじまってから顕著な現象で、つまりインプを稼ぎたいのだろう。どうしようもない、ほんとうにどうしようもない言論空間になってしまった。

10月27日(金)

情報メディア演習。今年から後期のグループ課題を一新した。ほんとうは後期ってもう今はいわなくて、秋学期というのだけど、結局後期って呼び続けている。代表的なSNSの歴史、ビジョン、特徴と、近年話題になった投稿から、なぜそれが話題になったのか仮説をまとめたリサーチ報告書をつくってもらいプレゼン。その後、そこで得た知見を活かすためのワークをどうすべきか。これまではSNSアカウントをつくって運用をしてもらっていたけど、小手先のテクニカルな部分ばかりが前に出てしまうので、どうしたもんだかなあと思っていた。

こういうとき架空の企業やプロジェクトを設定して、それを支援するための企画をつくってみよう、というのはよくある手だけど、それじゃあおもしろくないよなと思って、初の単著を出版する先生をSNSを使ってプロモーションしてみよう、という形式にしてみた。今までより学生が前のめりになっている気がして、楽しみ。最低限の書誌情報や企画の説明だけやって、そのあと記者会見のような方式で合同ヒアリング会というのをやってみた。各グループ3問ずつ、ぼくに質問をぶつけられるということにして、そこで得た知見は全員で共有する。どんな企画が出てくるのか楽しみ。

市ヶ谷のカフェドクリエで執筆して、帰宅するとじゅんちゃんが22時ごろお腹が痛いという。便秘とかじゃないのーといっていると、きっかり10分おきに痛みがやってきていることがわかり、病院に電話。「寝れないくらい痛くなったら、また電話してください」とのことで様子を見ていると、いよいよ痛みが強くなり、0時に電話したら、今から来てくださいということに。入院用にパッキングしていた荷物を持って、ガレージに向かうまでのあいだ、部屋の中で何度も同じものをひろいあげたり、物に身体をぶつけたりして、ああ全然平常心じゃないなと思う。こわいような、さびしいような、楽しみなような、形にならない感情がまぜまぜになった塊の中を歩いていくような感じ。

じゅんちゃん、とてもお腹が痛そう。バッグふたつぶんの入院の荷物を肩から提げて裏口の扉を開けて外に出たとき、空気が冷えて心細さの割合が増した。そのとき口から無意識に「今日のこの、車で夜出るときの心細さ、ずっと覚えてたいな」って言葉がでてきた。じゅんちゃんはそれどころじゃなさそうだ。

安全運転安全運転といいながら向かって、到着。病院の入り口でじゅんちゃんが「帰りはふたりじゃないんだね」といって、ぼくが「なんてこというの、縁起でもない!」と返すと、不思議そうな顔をしている。じゅんちゃんは3人で、ぼくは万が一のことでぼくひとりで帰らなければならない世界を想像していて、悲観的すぎるぼくをふたりで笑った。と振り返って書くと、なんでそんな想像をしているのか自分でもよくわからないが、こういう究極的なシーンで、ぼくはだいたい確率論とは別に、最悪のパターンの中に身を置くことが昔からくせになっている。

すぐ診察。しばらく待っているとばっちり陣痛だということで、入院することに。病室じゃなくて、分娩台にじゅんちゃんはすでにいて、赤ちゃんの心拍とお腹の張りがモニターされていて、毎秒数字が巻物みたいな紙にグラフとして記されていく。その機械が気になるようにで、波が底のときは「陣痛が、可視化されてく~」と楽しそうにいっているけれど、痛いタイミングでは普通につらそう。まだまだ時間はかかるでしょう、明日のお昼くらいかな、ということで、朝イチで収録を控えているぼくは帰宅。そんな状態で眠れるわけもなく、4時くらいまで布団の中でただただもんもんとして過ごす。

10月28日(土)

朝イチで新番組収録のために乃木坂へ。昨日の深夜にチームには状況を伝えて「なので、スムーズな進行で収録できたらうれしいです!よろしくお願いします!」と伝えておいた。収録後すぐ動けるよう車で行く。予定していた駐車場がどちらも全面工事中で(そんなことってある?)、車1台なんとか入れる路地の奥の駐車場を見つけて入れた。最大料金4800円とのこと。港区。すごい金額。

新しい番組には型がないからどうしようかな、どういう声やテンションで入るといいかなと悩んだけれど、まあなるようにしかならないし、と思ってゲストに向かって「初回なので、一緒に型をつくっていきましょう!」とすらいってしまう。自分がゲストならその方が気が楽だし、わくわくすると思った。会話が会話を呼ぶ、そういう時間が1時間強あった。ディレクターからのフィードバックをもらって、返答のバリエーションが減っていて、相手の会話を復唱するように丸めたがるクセが戻っていたことに気がつく。前者はすぐなんとかできるけど、後者は意識しないといけない。言語化が得意ではない方が相手なら効果的だけど、今日みたいに言葉をすでに持っている人にそれをやると、ただの復唱のようになってしまう。

無事終えて、急いで病院行くぞ、間に合うといいなと思ってiPhoneを見るとじゅんちゃんからの通知があって、10時過ぎ急に赤ちゃんが降りてきて、10時42分に生まれた、母子ともに無事、という連絡があった。間に合わなかったかーと一瞬思うも、それによって後悔のような感情は立ち上がってこず、かといってうれしさ大爆発というわけでもなくて、ただただ無事でよかったという安心感のあとを少しだけ追いかけてくるようにささやかで、けれど確かなよろこびがじわじわと広がって、顔がにやにやしてゆくのが自分でもわかった。チームのみんなに祝福してもらって、でももう生まれちゃってるからすごく急ぐ必要もなく、じゅんちゃんもまだ分娩室で待機して、もろもろの処置が終わって、出血が収まってから病室に移動するということだったから、ちゃんと今日の収録のフィードバックと次回以降の流れとスケジュール確認のためのミーティングを持った。

外苑の方にまわって、首都高に乗る。赤ちゃんが生まれた。全員無事だ。iPhoneからROTH BART BARONのニューアルバムをかけていると、妊娠期間中のおっかなびっくりな日々のことが思い出された。赤ちゃんが生まれた。計画もせず、子どもを持つことをなかば諦め、諦めたことすら悲しまず、すてきなDINKSになろうねっていいあったぼくたちのところに、赤ちゃんがやってきた。体中が震えてきた。この気持ちをなんていったらいいかわからないな、と思いながらアクセルを踏んで、ふと誰に宛てるでもなく、口に出してみようと思った。

赤ちゃんが生まれました。赤ちゃんが、生まれたよ。あのね、ぼくたちのところにね、赤ちゃんが来たんだよ。じゅんちゃんも、赤ちゃんも無事だったんだよ。いっつもぼくは最悪の最悪を想定しちゃうけど、でも全員無事だったんだよ。ふたりの赤ちゃんが、生まれたんだよ。今からあいにゆくよ。

途中から声が震え、風景がかすみ、けれどここは首都高だから危なくて、ロンTの袖で目をこする。こすってもこすっても、肩が震え、涙がぽろぽろとあふれ、それでもやめたくなくて、ぼくは何度も何度も誰かに向かって「赤ちゃんが生まれたんだよ」といった。

病院へ着いた。13時過ぎだった。面会者向けの小さな書類を書いてパスをもらう。ナースステーションに向かうとまだじゅんちゃんは分娩室で処置中ということで、少し待つことに。待合には不安そうな顔をした男性がふたりいて、無言の連帯を感じる。心の中で「ぼくは間に合わなかったけど、おふたりは立ち会いできそうでよかったですね。ファイティン!」と唱えた。

そうしていたら分娩室の方から、尋常じゃない叫び声が響き、フロアをいっぱいにした。手負いの、怒り狂った獣のようだ。「痛ーい!!!!!」「もう無理だってーー!!!!!!」「やめてーーーー!!!!!!!」「あきらめるー!!!!!!」という叫び声は、5分ほど続くとやんだ。そしてまたしばらくすると、再び叫び声が上がり、不安そうな顔をしていた男性のうちグレーのスウェット上下のひとりが、陣痛室と待合を疲労感の浮かぶ表情のまま、行ったり来たりしていた。

これが自然分娩の陣痛か。いったい、なんて声なんだ。こんな声を出すような痛みは、どれほどか。自分が最も痛みを感じただろう、上腕骨の螺旋骨折を思い出してみる。あれは死ぬほど痛かったし、担当医によれば体中の骨折の中でも1番くらい痛い場所を1番痛いしかたで折ったらしい。けれど、それは一瞬の痛みで、受傷後の痛みも相当だったが、1番痛い時間が継続し続けているわけではなかった。術後の夜は痛み止めの座薬を入れてもまったく眠れないほど痛かったが、ぼくは叫ぶことはなかった。真っ暗な病室で歯を食いしばって、Spotifyで入眠用の自然環境音で構成されたプレイリストをえんえんと流し続けていた。

どう過ごしていたらいいかわからない時間が40分くらい続いて、「病室移動までもう少しかかるけど、分娩室でとりあえずお話します?」といわれたので、もちろん、と思ってピンクのカーテンの奥の部屋にゆく。

昨日の夜と同じ体勢でじゅんちゃんはそこにいて、見たこともないようなボロボロの表情をしていた。短時間でぐっと赤ちゃんが降りてきたこともあり、出血の量が多いらしい。ありがとね、がんばったね、と手を握って声をかける。他に言葉が出てこない。赤ちゃんの写真見る? と聞かれて、でもここまで来たら対面するまで画像は見ないぞ、と思う。一通り話をして、他にすることがなくって、今はどうやら彼女の出血がしっかりと治まるまでの待機時間のようで、それがどれくらいになるかわからない。そういえば昼食をとっていなかった。看護師さんに伝えて、外に出る。出たら、疲労困憊でふらふらいていることに気づく。昨日ほぼ寝れてないまま、運転して、収録して、運転して、それで今なのか。何かあたたかいものを食べよう。東秀があった。ここでいいや。醤油ラーメンと餃子を頼む。父になってはじめての食事だ、と思うとそれがとてもおもしろい発見のような気がして、写真を撮った。これからしばらく「父としてはじめて」のシリーズが続くのか。

病院に戻って待合で待って、用意が整ったので病室に移動したじゅんちゃんに再び会う。ここは全室個室なのがいいところで、そういえばそれで決めたよなと思い出す。赤ちゃんがもうすぐ新生児室というところから来るらしい。待っていると、コンコンというノックの後、失礼しまーすと看護師さんがやってきて、赤ちゃんが入ってきた。白く塗装されたスチールのキャスター付きのキャリアみたいなのの上に透明なかごみたいなのが乗っていて、そこの上に赤ちゃんがいた。眠っているようだった。これは断じて親ばかではなくて、客観的事実なのだけど、これまで画像や映像で見た新生児はしわくちゃで青紫のような色をしていたからそういうものだと思っていたのだけど、目の前にいるのは薄桃色で、しわなどなく、果汁一杯で張り詰めた果実のようにみずみずしい、とてもきれいな赤ちゃんだった。はわ~~~~~~~~~~! という高い声が自分の口から漏れる。

寝ているようなので、じっと近くから見ていると、看護師さんが「ママの隣に持って行きますね~」といった。寝てるからいいのに、と思いつつも勝手も文化も風習もわからないから黙っていた。看護師さんは赤ちゃんの下に敷かれていた布団のようなタオルを、ちまきがお米を包むようにその角を巻き込むようにして丸め、すっと持ち上げてベッドに移した。そうか、こうすると首も支えられるのか。案の定赤ちゃんは泣き始め、寝ていたのにかわいそう……と思うも、興味は湧くばかりだから、こんどは泣いている表情やその声をじっくり観察してゆくことになった。観察だけじゃ全然足りなくて、なんども決めたばかりの名前を呼びかけて、からだをさすった。ほんとうに小さくて、頼りなくて、重力その他すべてに自重を預けきったそのちいさなからだは、けれど泣き声をあげるたびにしっかりと動く。顔は真っ赤になって、体温が上がり、おなかの上に手を当てると、これでもかというくらいに横隔膜が上下しているのがわかる。不安だね、不安だよね、だいじょうぶだよ、と何度も声をかけて、お腹の上に置いた手をゆっくりと上下させると泣き止んだ。お腹に置いたと書いても、ぼくの手のひらをお腹に置けば、指先は首近くまで到達する。それくらいちいさなからだ。赤ちゃんのてのひらの中に、人差し指を差し込むと、反射で握られる。その確かな反動が命ってことだと思った。

ママも休まなくっちゃね、と看護師さんにいわれ、赤ちゃんは新生児室に旅立っていった。それでもう他にすることもなくなって、途端にぐったりときた。今日はここで解散することになって、外に出る。今日はあんどうさんとねおさんとの会で、LINEでやりとりしながら、行くべきか帰って寝るべきか思案する。車なのでとりあえず家へ。約束の時間には下北沢には行けない。リスケ候補日を探り合うが、適当な日取りがなかったので、今日起こった出来事はすべてが特別な思い出になる、と思って決行することに。

仙川のいわしの飲み屋さんにゆく。いわし刺し、つみれ酢、かき揚げ、まぐろ刺し、芋水割り。途中からねおさんもきた。久々で、お祝いの言葉をもらったあとたくさん話す。「これが父としてのはじめてのいわし刺し」「これが父としてのはじめてのかき揚げ」「これが父としてはじめてのまぐろ」といいながら食べる。今日の目的は歌だったので、そのあと久々にカラオケへ。あんどうさんはいつものカラオケで、ぼくもそうで、ねおさんはたくさんアップデートされていて、Adoとかを歌えるようになっていた。最後の1曲であんどうさんがTHE BACK HORNの『初めての呼吸で』を歌ってくれた。

父としてはじめて終電を見送り、父としてはじめて夜中に出歩いた。すぐタクシーを拾うのがもったいなくて、たくさん苦しんだじゅんちゃんに少しでも追いつこうとしたのか、できるだけ歩いていこうと思った。しょうもないことだ。それでも歩きたかった。多摩は広大で、家に着くまでは歩けなくて、足がもつれたあたりでタクシーを探して帰った。23000歩くらい歩いたらしい。

10月29日(日)

想像していた通りの反動がきて、身体がしんどい。こういうとき、心は軽くなるのがいつもだったけれど、今日はそうでもないみたい。病院に行くつもりが、休ませてもらうことにした。おなかも壊した。じっとしていると、赤ちゃんが生まれたのがずっと前のような気がしてくる。社会が遠く感じる。あまりよくない傾向。そんななのに、なぜか夜にブラピの『セブン』を観た。なんで今見返そうと思ったのか、まったく謎。ラストの箱は覚えていたけど、妻が妊娠していた事実は覚えていなかった。そうかそれで残り2人ってことか。なんてタイミングで見返したのだろうと思う。こういう符号のようなことが、ぼくの人生には比較的よくある。