武田俊

2024.1.26

空中日記 #110|母の帰還、レーションとしての立ち食いそば

11月13日(月)

1ヶ月検診の前に、出生14日前後のタイミングでベビママ健診っていうのがあって、これはたぶんこの病院オリジナルのものなんだろう。いったんここが序盤戦の最初の区切りのようだった。

で、それが今日。朝、じゅんちゃんとイオを送っていく。

前から「なんでパパが入ってないの?」「初心者講習、とかでよくない?」と他愛なくしゃべっていた。病院についてナースステーションに向かうと、看護師さんが終始じゅんちゃんの方だけを向いてしゃべっている。妊娠中もずっとこういう感じで、最初少しだけむっとしたけど、通えば通うほどに、看護師さん=圧倒的絶対的妊婦の味方、みたいな存在だと知れたので、気にしないで過ごせるようになっていた。それだけ、産婦人科に男性が定期的にくる、ということがないんだと思うようにもなっていた。

ベビママ健診で何をするのかわからないけれど、色々話があるだろうから一緒に進もうとすると「申し訳ないんですけど、旦那さんは……」といわれる。想定してなかったのでうろたえていたらじゅんちゃんが「一緒に話を聞くこともできないんですか?」と聞いてくれるが、それにも「ええ、決まりですので……」ときまりの悪そうな返事が返ってくる。理由はよくわからないが、決まりらしい。それで90分くらいはかかる、とのことで、もういいや、と思って「じゃあ帰ります」といって後にした。キーを入れエンジンをかけ大通りに出ると、思っているより自分がしょんぼりしてしまっていることに気がついた。それでも、何かきっと理由があるはずだ、例えば──ベビママ診断っていうのはママが集団で受けるもので、何かおっぱいを出しあう的なイベントがあって、男子禁制だとか。

帰宅してしょんぼりしたままぐったり1時間くらい過ごしていたら、じゅんちゃんから連絡があって迎えにいく。イオは眠っていて、じゅんちゃんの目がばきっと開いている。どんな感じだったか聞くと、「じゅんこはね、怒っちゃったよ!」というので、わくわくする。目がアーモンドみたいな形に大きく開いている時の彼女は戦闘モードで、そういう時には大体痛快なエピソードが展開される。育休をとる前の彼女は、そういう目をしていたまに帰ってきて、その度にぼくは、こんどはどんな嫌なやつがいて、それをどうやって対処したのか冒険譚を聞くみたいにわくわく待っていたのだった。

まず、集団でのおっぱいを出しあう的なイベントはなかったらしい。じゃあぼくもいてよかったじゃん、というと、何でも健診といっても医師によるものではなく、実質的には助産師さんによる母親のメンタル面についてのヒアリングみたいなものだったらしい。故に、夫がそこにいてはプレーンな情報を聞き出せないから、「ベビママ」ということのようだ。

そこで助産師さんに、夫というのはそもそも理解がないもの、あなたは大変な思いをしている、もっと周囲に甘えていい、というなんともステレオタイプな「ケア」をされたらしい。出来合いの安い悲劇のヒロインみたいにさせられて、ふざんけな! と、そのこと自体に怒っていたのだ。パパママ学級でも、ほとんどのパパが家事をほぼやれなかったらしく、どうやらぼくらが想像しているよりも、ずっと夫婦がフラットであろうとしている世帯は少ないのかもしれない。

ガチ目の共働きの家庭に向けて、ヒアリングして課題を可視化させるサービスやったら、ぜったいいいと思う、というじゅんちゃんの目がさらに戦闘的なアーモンド型になっていて、いいぞいいぞと思う。

中華茶房8の六本木店が閉店になるという。店内の壁からおっぱいやお尻や男性器のモチーフのようなのが飛び出していて、だけど料理はちゃんとしてて、かつ安く、遅くまでやっていて、大人数で入れる。ということで、ゼロ年代後半から2010年代のある時期、よくみんなで使っていた。スーパーデラックスの帰りに行ったり、カイカイキキとの仕事のあとに行ったりしてた。記憶って、視覚嗅覚との結びつきが強くて、それらがトリガーになって喚起される。だから、風景が変わったら思い出せない物語というのがたくさんある。あるお店での出来事は、新しい建物がそこに建ったら、思い出せなくなったりする。2005年に東京に来てから、今までずっと東京自体が普請中だ。変わり続ける町の中での暮らしは、書き留めない限り、消えて、なかったことになってしまうのか。どうか。

今日知ったことば:タンギョウ
タンメンと餃子のセットのこと。タンメンを食べてこない人生だったので、まったく知らなかった。試したい。

11月14日(火)

仕事のために外出することすら、どこか申し訳ない気持ちになる。どれだけイオのことがかわいく大切でも、えんえんと泣いている声を聞き、必要なことをあれこれ探りながらやっているのは疲れるもので、最近わかったけどその育児まつわる疲れって、2種類の疲労からできている。ひとつは「なんで泣いているのかな」と色々察したり、「次はいつ泣くかな」と考えたりすることにメモリが常に充てられていること。もうひとつは、そうやって自分の認知のメモリの多くを常に赤ちゃんに向けることによって、自分自身が消失してゆくこと。

家から出てひとりで歩いていると、途端に自分って今インディビデュアルだ、ということがわかって、途端に頭痛が抜けていったりする。後者の疲れがどれほどのものか、やっと最近わかってきた。じゅんちゃんもそれを体感しているはずだからこうやって仕事でも、ひとりになれる移動の時間を申し訳なく思ったりするのだけど、彼女はそれを恨めしくなんかまったく思わないタイプで、むしろ出れるなら満喫してこい、というタイプ。ぼくは、その上で、それでも申し訳なくなるタイプ。すごい人生損してそう。

Tucncore Japanの新番組「I-DEFY」収録の日。今日が2回目。今やっている仕事の中でも、もっとも気持ちが乗っているもののひとつ。インディペンデントで活躍するアーティストに、その心得や課題や不安や熱情について聞いていくもの。自分にとって、luteの弔い合戦みたいな気持ちもある。そういえば、ぼくもずっとインディペンデントなひとりとして仕事をしてきたのだな。そろそろその自負を持ってもいい頃合いな気がする。

恵比寿で収録を終えて、イマヨシさんの送別会のため代々木上原にゆく。家がそばで、事務所も構えていたから週に何度も出かけていた町なのに、なんだかもう懐かしい。焼き鳥を食べて、それぞれのイマヨシ史みたいなことを話していたはずが、なぜか子どもの時のおもしろ写真デュエルみたいなことになって、あんどうさんがすごく強かった。天真爛漫な幼少期から、すでに小学校低学年で世の中の邪悪さを悟ったような、すごい顔をしていた。

そのあと眞木へ。カラオケスナックってやっぱ好き。これは集団競技。テーブル同士、客同士がその日の空間を、歌を召喚してつくっていく作業。だから連帯が重要なんだけど、ほんのちょこっとだけそこに競争心のようなものが芽生えていって、「こっちテーブルの歌、いいっしょ」みたいな気分になる。その闘争と協調の距離が絶妙で、そこがカラオケスナックの好きなとこ。

11月15日(水)

久々に深くまで夜外にいて、全然ダメ。育児の定常タスクすらこなせなくて、ごめんなさいでいっぱいになる。ただでさえ自己肯定がへたなんだから、こういうところで自分を下げてしまっては元も子もないのである。懺悔のきぶん。

11月16日(木)

イオにK2シロップをあげる日で、それをどこかで楽しみにしてた。未知ってだけで何でもちょっとがいつも楽しみ。なのに、見逃してしまった。次回に期待。

奥村MTG。1年先の先輩パパだと思うと、彼がとても頼もしい存在に見えてくる。ぼくと奥村の関係は変わらないけれど、それぞれの属性は変わっている。変化の中に、変わらないものを見つけられると安心できるから、それで変わっていった部分の先、つまりぼくらの仕事のしかたの未来、に適切な距離感で話を向けられている気がする。

ふとGoogleカレンダーを見ると、共有カレンダーの中の『ミルクの中のイワナ』の予定がめっちゃ入ってる。ぼくは今全然参加できていないけど、色んな人がこの作品とあさとくんを支えようとしてくれていて、それに彼が全力で応えていっているプロセスが、紫色の帯として、表示されている。いいぞいいぞ、と思いながら、少しだけさびしいような気分。子どものときの夕暮れ時に、こういう気持ちによくなっていた。ぼくの人生の時間の多くは、こういう理由のないもの悲しさに満ちていて、その正体ってなんなんだろと思う。少しするとそれは抜けていくけど、また知らないうちにやってくる。やっかいな旧友って感じ。

11月17日(金)

6時半起き。ゴミ出し、クイックル、洗濯の3点セットやって、コーヒー。イオのお世話。カフェインが効いている間だけ動けるものの、すぐにソファに沈殿してしまう。お世話の合間に溜めちゃった日記を消化しようと思って、もう1週間も経っている。というか、すべてが溜まっている。ソファで今日の授業のスライドの用意。

じゅんちゃんがカンナさんと遊ちゃんのつくった『親友マガジン カンナちゃんと遊ちゃん」を送ってもらっていて、先に読むのはだめな気がしたけど、じゅんちゃんは気にしないとわかっているので読むことにした。これは親友4年目とかのふたりが、親友になったプロセスをコラムにしたり、年表にしたり、対談したり、マンガもあったり、というZINE。文学フリマにも出したそうで、Instagramで見たらはじめての出店なのにブースが立体的ですばらしかった。即売会、柱みたいなのを立てて、屋台風にするだけで、一気にブースの魅力が増すんだよね。

で、読む。最初、ふたりのあまりにまっすぐに相手を思う気持ちが恥ずかしかった。けれど途中から、それはあこがれのような気持ちに変わっていった。2カ所くらいで、そんなはずじゃなかったのに、泣いた。その横でイオが、朝日を身体ぜんたいで受けながら、んうぁああ、といっている。ぼくは酔うと好きな友だちに「一生の友だちだもんね!」とかを恥ずかしげなくいうそうだ。いわれた相手は、気恥ずかしさから乱暴になったりするのだけど、男同士の友情ってそういうふうに、言葉にすること自体が野暮って雰囲気が支配的。だけどそれはぼくはつまらなくって、ほんとうはもっと言葉にしたいのだ。彼女たちの雑誌にあこがれたのは、そうか、ここか、と思う。

じゅんちゃんに、じゅんちゃんは親友っているの? と聞くと、「親友がよくわからないけど、じゅんこは戦友ならいるよ」といっていて、かっこいい。そこからふたりで『戦友マガジン』があったとしたら、どんな目次が考える。「これまでの強敵リスト」「仕事で死にかけた日のコラム」など。

10時過ぎに2週間もの間サポートしてくれてた母が帰る。大学時代の同級生と新宿でランチをし、上野でキュビズムの展示を見て帰るらしい。ゲームならやっとチュートリアルが終わったということ。これからが本番、と思うも、どこか自分がちぐはぐしている感じ。母とじゅんちゃんの2人とここまで一緒の時間を過ごしたことがこれまでなく、かつそこに新キャラであるイオが加わったことで、ぼくの分人を調整する機能が混乱している感じがする。ただでさえうまく掴めていない自分自身がさらに、ぐらぐらと揺らぐ感じ。

じゅんちゃんとバトンタッチをして、いただきものの無印のグリーンカレーを温めて食べる。無印のレトルトカレーよくできている。日用品としては高い気がして買おうと思ってこなかったけど、いいものだからたまに買おう。あげるものいい。

大学で授業。100分、デジタルメディアが社会に与えた恩恵と危機について、事例を挙げながらしゃべり倒す。家を出るまで疲労感で授業どころじゃないと思っていたけど、教壇の上に立つと余裕でやれる。ラジオも一緒。ナラティブならどういう状況でもだいたいいける。ただ、反動はある。小諸そばがあって入ったら海老のてんぷらを1つ足してくれるキャンペーンをしててそれにする。海老が3つ入って、560円。すごいな。おいしくなくても、海老というだけでいい気分。それに立ち食いそばは、仕事を戦う気持ちになれるからよい。レーションとしての立ち食いそば。小諸そばはけれど座席があるから、立ち食いではないよなあ。座るけど立ち食いそばのカルチャーの範疇のそばをまとめて呼称するいいかた、ありますか?

そのあとカフェドクリエで作業。執筆する予定が、今日配信スタートの新しい番組「I-DEFY」の告知などをやってたら時間が来ちゃった。TuneCore Japanでのこの仕事。個人的にはluteの弔い合戦のような気持ち。立ち食いそばを食べたから、戦闘的な気分。

帰宅、今日は夜の番。イオ、まったく寝ない。ぼくも寝ないで、合間に日記とかを書いたらいいじゃんと思ったけど、そんな気力なかった。なぜか無限にお腹が空く。朝が遠い。まじで寝ない。どうしたの? と声をかけるとそれを聞いて、こちらを見て、それでまた泣いたりする。認知機能が発達して、これまで気にならなかった世界のあれこれが、新しいざわめきのように感じられて、そのひとつひとつが不安だ、というような気分の気がする。それってこわいよねえ。よしよし。と思って、抱き上げて歩いてもだめ、ここまで無敵を誇ってきたboba wrapを使ってもだめ。

どうしたらいいんだろ、と思っていると声が大きくなって、顔が真っ赤になって、その収縮している血液が張り詰めたほっぺたを爆発させそうで、かわいそうで、不安になる。パパ歴2週間なので、ぼくも不安だよ、ごめんよ、といって抱き直し、ぼくもへろへろなのでお腹の上に縦抱きする形をとって、両手で少し力を入れて抱えるようにすると、少し落ち着いた。そのままふとんに少しだけ入らせてもらって、一緒にうつらうつらとしていた。不安なまま、幸せな気持ち。トトロがめいちゃんを乗せているときの気持ち。4時。今日はこの体勢でしか、いられないんだろう。

11月18日(土)

イオは朝までほとんど眠らなくて、5時にバトンタッチ。10時まで寝て起きて、またバトンタッチして、このスパンでのバトンタッチはいつまで続くんだろうと思いながら、お世話をしつつベラトール見る。おむつもミルクもあやすのも、基本タスクには慣れたので、不可解なギャン泣きみたいなのがなければ、テレビくらいは見れるようになった。不可解なギャン泣きって、たぶん本人も不可解なんだと思う。なにが不快かもわからないまま、それを自分でどうすることもできず、他人にも伝えられないから泣き続けるしかない。つらそうすぎる。不可解なギャン泣き。理由なき反抗。

ベラトール、シャブリーの距離感と打撃精度、パッチーのグラップラーとしての美しすぎるゲームメイクにしびれる。朝からいいもの見たと思ったら、もう昼だった。チャーハンがいいとじゅんちゃんがいったので、チャーハンをつくるのだけど、最近よくつくっているからつまらない。ちょっと外したい。それで、豚ももの塊を小さく切ってにんにくほかで下味して、甘めの梅干しを叩いて、卵を3つ割った。ネギがなかったけど落ち込まないで、冷凍のアスパラを発見したからそれと豚を炒め、1度あげる。ごま油を回してにんにくして、卵入れ、間髪入れずごはん入れジャジャジャ。で、梅干しを叩いたのと、塩昆布を入れ炒め回す。豚とアスパラ再投入でジャジャジャ。塩整え、醤油一回しで焦がして香り。これが大変によくできていて、喜ばれる。小さいときから、通知表の「創意工夫」はずっと◎だっただけある。

池田大作が亡くなったらしい。池田大作や創価学会の名前をみると思い出すのが、大学2年のときの小説を書く専門科目のこと。坂口くんって1個下の、太宰みたいな華奢できれいな文学青年って感じの子が、課題の小説で創価学会をテーマにしたラブコメを書いてた。信者の女の子をなんとかする、みたいな話で、そのヒロインの名前が折伏子だった。折伏ってワードを知らなかったので、「これなんて読むの?」と聞いたら、「しゃく・ぶくこ」と坂口くんはいった。
「え、なに?」
知らない単語は聞き取れない。
「や、だから、しゃく・ぶくこ」
「ぶくこ?」
「そう、ぶくこ」
「へー」
ぶくこって、今見てもすごいな。そういう会話を思い出す。

夏くらいにファミ通の開発者インタビューを一緒に読んでから、じゅんちゃんがずっと楽しみにしていたのが新作の桃鉄で、今作の目玉が全世界を対象にした円形のマップだった。じゅんちゃんは地図が好きで、だから桃鉄が好き。それで買っていて、午後からイオがよく眠ってくれたから、夜一緒にやることにした。ほんとうは白菜と鳥のクリーム煮をつくろうと思って、万全の買い物もしてきたのだけど、「なんか今日さぼっちゃおうよ」とどちらからともなく言い合い、ピザを頼んで、取りに行き、半額のピザで楽しもうということになった。

桃鉄、世界旅行的な楽しさがあるし、マップがたしかに円形で、これをつくるのが大変だったと話していた対談を思い出す。途中でセーブして、継ぎ足しみたいにやろうといっていたのが、10年分やった。楽しかった。久々に完全にリフレッシュできた時間で、イオがやってきてから、1番楽しかった。赤ちゃんがよく寝る、ということの大切さ。大人にとっても大切なみたい。

11月19日(日)

仕事のやらなければいけないタスクが、タスクボードの形で目の前に見える。けれど身体があまりに重いからできないでいると、イオがおぎゃーんと泣く。ほんとにオギャーっていったりするのだなと思って、おむつをチェックしたりあやしたりミルクをつくったり、その時々必要な対応をまず探り、そして行っていると平気で1時間とか経っている。

インプットでもアウトプットでもいい。ながらで何かできることをせめてしたいと思ったら、格闘技を見ればいいと思い、朝はUFCを見ながら育児のあれこれをした。今日は夜に修斗もあるし、野球のジャパンカップもあるし、スポーツもりだくさんだ。

昼過ぎにバトンタッチして、しばらく倒れ込む。何かゲームをしてみたいと思って、『スーパーマリオRPG』のリメイク版をダウンロード。『スターオーシャン』といい、最近自分は何かリメイクづいているのか。懐かしい。音声SFC版と切り替えられる。マリオRPGといえば、なんといっても戦闘中のBGMだ。あれを聞いているだけで、当時に戻っていけるような気がする。

夜、長谷川あかりさんのレシピで、白菜と生ハムのわさびマリネと、鳥むねと舞茸のマスタードクリーム煮をつくってみる。後者はレシピだとサバ缶なんだけど、鳥むねを使いたかった。鳥ハムに飽きてしまった今、鳥むねをそぎ切りにして下味ののち片栗粉をしてあげると、全然固くならないっていうのがとても救いだし楽しい。どっちも大満足のできばえだった。長谷川さんのレシピはどれもお手軽なんだけど、調味料の組み合わせなどにちょっとした工夫というか、ズラしがあって、このズレの距離の分だけ、日常の既知の味から離れられるから、少しだけハレのお料理みたくなる。手軽なのに、なんか新しい。彼女の人気ってたぶんそこにあるんだと思う。自分ひとりだとぱっと思いつけない、けどやってみるとちゃんとおいしい。これはとても編集的。