武田俊

2024.5.8

空中日記 #122|異形の青春

3月18日(月)

晴れ 13℃/5℃
チバさんエッセイの告知。何人からかよかったよ、と直接メッセージをいただいてうれしい。誰に頼まれたものでもない文章を、ほめてもらえたり、誰かの行動や態度のポジティブな変容のトリガーとなれるような時に、いちばんうれしさを感じるようだ。Hさんからは特に長いメッセージをもらえた。お会いしてゆっくりおしゃべりをすることに、何か新しいことがはじまるような気分。

発売日になったので、増田俊成『七帝柔道記Ⅱ』を買う。ゲームの発売日を待つような気分で過ごしていた。うすいさんにおすすめすると「武田さんに勧められなかったら、手に取ろうと思わない感じですね」的なことをいわれる。ぼくもそう思う。なんで、ぼくは前作を手に取ったのか。『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の著者による私小説、というのが大きかったのだろう。

3月19日(火)

くもりのち晴れ 12℃/4℃

日曜日、1日フリーにしそこねたので、今日を自由に過ごしていいことになった。急だったので計画できてない。釣りに行くのか、映画館、美術館、あるいはトレーニングするのか、誰かと会うのか。全然決められず時間も過ぎて、ややパニックに。「休日はこれっきりじゃないから、楽にすごせばいいよ」といわれ、1日中移動を続けながら『七帝柔道記Ⅱ』を読み続ける。3回くらい涙ぐむ。異形の、普通とは全然違う価値観・空間の中での、あまりにも普通で瑞々しい青春、みたいなものにぼくはめっぽう弱いのだと思う。

このあいだU-NEXTで見ていた過去放送回の「家、ついて行ってイイですか」の、自衛隊の回でも泣いていた。知らない世界の存在によって鋭敏になった好奇心の目が、ふいに知っているものの美しさを捉えたときに、その遠近感が破壊される。知らない世界のことは、知った世界のフォーマットなどのイメージに当てはめて理解し考えようとするから、そのフレームが知っているものの美しさによって割られ、その断面が乱反射するように輝く。その光が、たとえばいちばん美しい光のひとつなのだと思う。

3月20日(水)

晴れ 午後突風と強い雨一瞬 10℃/3℃

春分の日。今日は逆にワンオペできるだけする。あすけんを再開したので、なるべく適正なPFCバランスで食べたくて、午後冷凍していたとりむね肉を自然解凍すべく取り出す。それを夕方、フードプロセッサーでひき肉にする。皮はもちろんとった。そこにもめん豆腐一丁を混ぜ、少量のしょうが、にんにく、残っていたから紅ショウガ、長ネギ刻んだのを入れ、卵も。片栗粉を切らしていて、あまっていたお好み焼き粉があったので、それをつなぎとする。ありものだけで、和風のつくねみたいな豆腐ハンバーグができあがる。こういうごはんがいいねと思う。マイレシピとしてあすけんに登録すると、1食あたりたんぱく質が40グラム近くとれる。大変に素晴らしい。

3月21日(木)

晴れ 10℃/3℃

北風が強い日。夜当番終えて仮眠から起きて10時。久々に走ろうと思って出かけると、ラップタイムも心拍数も久々と思えないほど好調で、こりゃいいやと思ってるんるん走り、ポイントに到着したので折り返すと、びっくりするくらい向かい風で、さっきまで強い追い風に押してもらっていたのだった。ウグイスが下手な声で鳴いていた。それを聞いて自分でも驚くほどぐっときていて、それは鳴き始めで下手のこともあるし、今住んでいる町ではこれが聞けるという喜びもあるし、春がやってくることへの期待でもあったのだけど、頭の中によぎっていたのは数年前のこれくらいの季節に取材で出かけた愛媛県の八幡浜という町の風景だった。

瀬戸内海に面しているそこを、ぼくらは段ボール一個を手がかりに車を走らせていた。段ボールアーティストの島津くんに東京でピックしてもらった「愛媛 八幡浜」と書かれたいよかんのそれで財布をつくってもらって、持ち主に届ける、という企画だった。農協に行けばわかるだろうとたかをくくって出かけたら、「こんな段ボールは知らないねえ」といわれ、どうやら産地直送とかのインディペンデント農家のものだったらしく、手がかりもなく途方にくれていた。そういう状態で走っていたのだけど、ほんとうに景色がすばらしかったのだ。日本の里山、というイメージをフィクションレベルで最大化に高めたような場所で、緑はいきいきとし、小さな小川沿いの道には、こぶりなソメイヨシノがばっと咲いており、そのそばには菜の花がかわいい黄色をのぞかせていて、そこでウグイスが鳴いていた。

途方に暮れたぼくらが道の駅のような場所で一休みしていると、とても人の良さそうなおばさんがやってきて、事の次第を話すと、知り合い各所に連絡をし続けてくれて、それでこの段ボールが、「向こうの山の上でやってるご夫婦の農家さん」のものだとわかり、アポをとり、小躍りしながら届けに行ったのだった。段々畑を毎日作業しているからか、そのおじいさんの体はアスリートのように締まっていて、つるっと磨かれた頭は大豆みたいだった。みかんみたいではなかった。

3月22日(金)

ワンオペの日。散歩に出るとき、最近はベビーカーを使わないで抱っこひもで出かけるのがブームになってきた。いくら今住んでいる町の道が都心のそれより広くても、買い物をしようとすると億劫になることは少なくなくて、それならさっとほぼ体ひとつぶんで移動できる抱っこひもに軍配が上がっている、ということのよう。書店で柴崎友香『続きと始まり』を買う。1冊だけあった。そしてこの町には『みどりいせき』がない。出る前から楽しみにしていたのに、いまだ買えていない。

じゅんちゃんが育児のあいまというか、流れでドラマを見ることをじょうずにやっていて、『俺の家の話』を見ていたらおもしろそうに見えた。クドカン作品とはずっと相性が悪くて、でも見てみたく、今日のワンオペの間につけてみようと思って試してみたところ、開始数分でなぜか見ていられなくなる。他人が見ているときに一緒に見ることはできるのに、なぜひとりだと苦痛のように感じてしまうのか。

イオが生まれてから動くことが減って、体力が減退しているし少しでも温存しておきたいから運動もせず、けれどストレスは溜まる。動いていないと不思議なことに動いている時より何かを食べたくなるというのが人間の常だから、それで食べる。で、太る。いよいよまずいと思って、今週からあすけんを再開し、インボディで毎朝体重その他を測る。これをするだけで4日でとりあえず1キロ超落ちた。

夜、ひとりなのでさぼりたい。何か買ってきてすませようと思うも、成城石井、その他コンビニなど回るも、自分でつくったほうがおいしいしなと買い物できず。帰宅するとイオが久々に何をしても泣き止まないし寝もしない、というループに入ってしまい、それで2時間くらいつかって、その間に空腹はひどくなり、ああこういうことのために買っておかないといけないんだよな、と思う。20時くらい。キャベツもやし、しめじをシリコンのタジン鍋で蒸して、それをサッポロ一番のみそ味を、自分なりにスパイスその他で魔改造した辛味噌ラーメンに乗せてすませる。

『ドラゴンズドグマ2』を悩んだすえプレイ。めっちゃかっこいいじじいキャラをつくることに成功するも、「ウィッチャー」シリーズのゲラルドにしか見えなくなってきて、自分がやっているのが何のゲームなのかわからなくなってきたので、作り直す必要あり。寝る前、『長い一日』と『続きと始まり』を読む。『長い一日』まもなく終わりそう。そのまま未読の『水平線』『ラーメンカレー』に入るのがよさそう。今のぼくに、滝口さんの文章がすごく重要な気がしている。

3月23日(土)

はじめて民間のシッターサービスを頼んでみようということになって、滝口悠生さんと柴崎友香さんのトークに出かけられることになった。以前なら心のどこかで「半分仕事みたいなものだし」と思ってしまっていたような催事が、今はただただ豊かで楽しみな時間になっていて、制約はものごとの豊かさの濃度を高めてくれる。

三鷹SCOOLは久々で、前回は──と記憶を辿ると、滝口さんの『高架線』のお芝居を見に行った時で、それは内沼さんと阿久津さんと出かけたときで、見終わった瞬間その芝居の出来に不満があって、でも見終わったばかりだったら重要な部分を見落としている可能性もあって。そんなふうに過ごした時間のことを思い出した。メモをいっぱい取って聞いた。思い出すこと、時間のこと。ふたりの小説にはたくさん時間ついての発見があって、それを思い出しながら、オーディオコメンタリーみたいにして過ごしていた。せっかくなので質問をしようと頭の中で組み立てていたら、手前おふたりの質問が、本題の質問に入る前に寄り道を必要とする話し方をしていて、それが想像以上に長い。トークイベントによくある光景で、それ自体を懐かしく思いながら、手短に話せるように要約していく。自分が主人公でない場では赤面症になってしまうことを思い出して、手を見たら汗びっしょりだった。質問はうまくできた。

いつか仕事をする、お願いする可能性があるから作家には自分からサインを貰わないようしていて、それは若い頃、仕事を一緒にしてもないのに作家やアーティストに会うたびに率先してサインをもらいツーショを取り、さも仲が良いかのようにSNSにアップする手合いに嫌気がさしていたからで、自分の中の誠実さとの契約だから今もしない。けど、おふたりに話したいと思ったのでサインの列に並ぶ。滝口さんと男親の互助会をつくりましょう、と話し、柴崎さんには今まで色んなところでニアミスしていたのです、なんて話をした。久々に、好きなひとたちの話を聞いて、その人たちにあいさつができた。そのことだけで、こんなに心が軽くなるということ。