武田俊

2023.2.4

空中日記 #86|アグレッシブな外出

1月23日(月)

最近自分より若い人に「飲みに行くぞ!」みたいなことが自分から言いづらくなっていて、でもむしろゆっくりおしゃべりしたいよなあと思うのは自分より若手の作り手たちで、その一人が前原くんだった。DMで飲みたいねえ、なんて話していたら彼が企画してくれて、若手舞台俳優たちとの飲み会という形になって、なんだか照れくさいような気持ちで明大前に出かける。

ほぼオンタイムで指定されたアジアンな感じの居酒屋のようなお店に到着すると、すでに前原くんと森くんがいて、飲み物を頼んでいる間に長井さんも来た。ちょっと遅れてそじんさんも来た。この人数で食事をすること自体が久々で楽しい。

みんなそれぞれの現場の話をし、ぼくは自分がかつて体験した座組の話をした。いろんなクリエイターの中でも舞台俳優たちの仕事の苦闘みたいなものを聞くと、なぜかその他の業種のそれよりも胸の奥をぐっとつかまれる感じがする。それを最初に感じたのが、恐らくはじめて範宙遊泳の舞台を見に行ったあとの打ち上げに混ぜてもらった10年前くらいで、それからずっとそうだ。ぼくが舞台というものに感じている尊さやあこがれのような感情がそうさせるのかもしれない。

役者はみんな、しゃべれるから、どんどん話が重なる。話が話を呼ぶようにして、みんな自分の切りたいカードを手で持ちながらターンを待つ。たまにわざとそのターンを乱すように森くんが「これまじうまいっすよ」といってきて、笑う。たしかに途中で届けられたポテトフライが、異様においしかった。

割ればいいのに、またちょっとだけ多めに出してしまった。それが正解なのか、いつもわかんない。フラットに友達でいたいけど、年下の相手たちとの食事で、どういう振る舞いがいちばん気分のいいものなのか、なかなか定まらない。定まらないまま、たぶん老人になっていくような気がする。

帰り道、何かたかまったのかこんなツイートをしてた。
何を考えていたのか、もういまは思い出せない。

1月24日(火)

石垣島に移住して東京に戻ってるタイミングの橋本さんと、ごとうさんとランチ。めぐたま食堂に行ってみようと待ち合わせたら定休で、とうめしが食べられるという〈豆腐食堂〉というとこにゆく。歩いていると地形から記憶がよみがえるもので、だいぶ昔、草なぎさんにこのあたりのちょっとおしゃれな韓国料理屋さんに連れてってもらって、そこで創業直前の夏葉社の島田さんと会ったのだった。

〈豆腐食堂〉は店内面積の1/3くらいが豆腐製造のスペースで、出入り口にはお豆腐がテイクアウトできるディスプレイもある。ランチは豆腐御膳というのと、担々麺のようなものが2種類。それで3人ともけっこう悩む。けっこう悩んだすえ、全員豆腐御膳を選んで笑った。

石垣島の暮らしの様子を聞いているとひたすらうらやましくなるんだろうな、と思っていて、たしかに前半はそうだったけれど、橋本さんがいいあんばいに、「住んでみてわかるただただいいだけじゃない部分」をちゃんとに話題にあげてくれてうれしい。

近況として最近釣ったヒラメの写真を見せて、その釣り方を解説すると、ダイビングをしている橋本さんは「たしかにヒラメ、岩場にはりついてるのよく見ます〜」といって、途端にダイビングに興味を持った。ふだんおもりとラインの伝えてくれる「情報」を頼りに海中の様子を想像して釣っているわけで、それが実際に潜れるなら、より海中の様子を解像度高く想像し理解できるんじゃないか。そう話して「ダイビングして、そのあと釣りする人っているんですか?」と聞くと「んー、知らないなあ。でも、素潜りで銛で突く人はいますねえ」とのことで、たしかに突いたほうが早い。

午後、新宿。新しいプロジェクトに際して、先方の役員との顔合わせだった。こういうの、以前はめっちゃやってたけど久々で楽しい。この日のために用意していたわけじゃないけど、ちょうど来年度の授業のための資料があったので、そこの張っておいたポートフォリオを頼りに説明をしていく。1時間あっという間。

創作は常に手探りで、何も頼りに出来るものがなくて、その代わり見たことのない自分が見つかったりする。仕事は常に、過去の自分が助けてくれる。自分の持っているスキルが案外希有で、それを必要としたりおもしろがったりしてくれる相手がいて、その分人同士のポジティブな関わり合いを、頼もしく思ったりする。久々に自分のことを好きに思えた。そう思えたのは、そう思わせてくれる相手がいたからだった。相手との関わりの中でだけ、ぼくには自分の輪郭が与えられる。

1月25日(水)

寒すぎる。
寒すぎて、アグレッシブに外出をしないことを決意。丸一日「青の輪郭」の執筆に充てられるぞ、と思って朝から意気込んでデスクの前につくもまったく進まない。完全なる手詰まり。理由はたぶんわかっていて、手元にあると思っていた今書いているパートの資料がなかったからだ。なくても覚えていることだけで、1話書くのは十分可能だとは思った。でも、ほんとにそれでいいのか。それは不誠実じゃないのか。そう考えて、でもとデスクにへばりついて──で1日が終わる。

夜、目黒考二が亡くなったことを知る。ちょっと前までは訃報を聞くと「ああ、なんか先輩たちが影響受けたりした人かあ」と思っていたが、だんだんと自分自身が影響を受けた人が亡くなっていく時期になってきたんだと思う。ショックとともに、椎名さんは大丈夫だろうか、と思う。

https://www.webdoku.jp/newshz/zasshi/2023/01/25/110000.html

1月26日(木)

青木真也のフィリピン滞在記が楽しい。
https://note.com/a_ok_i/n/ne6ab9ccc436f

ほんとはわたると原宿でお買い物の予定が、ぼくが持っていたはずの割引の効く会員証が見つからず、バラす。新プロジェクトのため新宿へ。思いを聞き、それに適切で、ほんのちょっとポエジーを織り交ぜたフレーズを提案し、それを相手がうれしそうに受け取っていく。その流れの中で、また自分のこれまでやってきたことがクリアになって見えてくる。そうか、ぼくはこういうことを仕事にしてきたんだ、と思う。そしてそれはもうほとんど、編集者としての編集じゃあなくなっている。

夜、ろばとのインスタで気になって頼んだ、山本佳奈子さんによる、アジアを読む文芸誌こと「オフショア」が届く。

「青の輪郭」、やっぱり過去の自分たちに対して不誠実な状態で書くことはできないと思い、今週お休みすることと、名古屋に行くことを決めごとうさんに連絡した。自分で決めた締め切りを破ることは、すごく苦しい。すごくすごく苦しい。

1月27日(金)

本当なら早川のキャッチアンドリリースでのニジマス釣りに行くはずが、天気予報で午前から雨、ということで、午後一で小田原に行って横田さん、松田と新年会をすることに。13時に小田原につくとまだ雨は降っていなくって、これなら釣り出来たなと思うも、水温が低すぎるのか、魚は全然口を使ってくれなかったとのこと。

横田さんがあらかじめ想定していたおそば屋さんが休みで、けれどそのすぐそばに成川さんが仲間たちとはじめたいう書店〈南十字〉があったので入る。すでにリュックには本が何冊か入っていたけど、こういう時には買い物をしておきたい。河出が竹尾とつくっている色んな意味で話題の「スピン」と山崎修平『テーゲベックのきれいな香り』の2冊を買う。

レジの方に「成川さんはお店に立たれるんですか?」と聞くと、平日の夜だという。
「何か言伝しましょうか?」と聞かれたので、武田が来たよ、とお伝えくださいといった。こういうやりとりあまり最近はなくなっているので、楽しい。

駅前まで出て別のそばやで新年会を開始。つまめるものの数が少なくて、生しらすの軍艦、てんぷら盛り合わせ、板わさ、やまいも磯辺揚げを頼んで、それがなくなって移動した。次は町中華の〈栄華軒〉。ここがとてもおいしい。なにを頼んでも外れがない。圧巻だったのが蒸し鶏で、「研究に研究を重ねました自慢の一品」のようなことがメニューに書いてあったので、いったいどんなものだろうと頼んだら、たくさんのキャベツの上に、おそらく低温調理なんだろう、ほろほろとしつつもしっとりと水分をたたえた鶏肉がたくさん乗っていて、上から葱油がかけられていた。見た目のインパクトがすさまじく、もはやちょっとグロテスクですらあったそれがとてもおいしい。

久々に会うと話すことが尽きなくて、というか、ぼくばかりが話してしまってちょっと反省しながら、そのまま名古屋へ。金曜の夕方、新幹線はなかなか混んでいた。疲れ切っていたので名古屋駅からタクシーに乗ると、こってこての名古屋弁の運転手さんにあたる。近年のドラゴンズ批判から始まり、中韓への嫌悪や、景気について。普段まわりににいる人たちからは聞けない話なので、インタビューのように質問を展開する。しかし鮮やかなまでのハードコア名古屋弁。東京の友人に「名古屋弁ってどんなの?」と聞かれてあまりうまく表現できないことが多いから、録音しておけばよかったと後悔。

 

1月28日(土)

韓国ドラマと映画にどハマりして、今は文学方面にも手を伸ばし始めた母が「これ最高の本だった!」と興奮気味に教えてくれたのは斉藤真理子さんの『韓国文学の中心にあるもの』で、読む。luteの終盤に、インタビューの機会をもらったことを思い出す。うかがったのはその時はじまりを見せていた韓国文学のブームについて。IMF危機とセウォル号事件が近年の小説のある種の背骨になっていること、純文学と詩の書き手がいつも社会状況に対して真っ先に声を挙げてきたから今でも肩書きとしてリスペクトされていること、などを教わったことを思い出す。この本はそれをさらに深め、事例と紐付けてくれているもので、どんどん引き込まれて読んでいく。

午後、スタバで作業を光が丘の方にあがっていく。自分としては光が丘という認識の場所に立つスタバは自由が丘店で、そっか、自由が丘店の方がブランディング的にイケてるのか、と理解する。大差ない気がするけれど?

休日の地方都市のスタバは、ハレの場。混み合っていて、みんなフラペチーノ的なものを飲み物ではなくスイーツとして楽しんでいる感じがする。久々に他人のファッションによって気分が高揚したので、ツイートした。

急にまわりでbondeeがはやり始めたのは恐らく2日程前で、昨日つくったアカウントを動かしてみる。mixiのようであり、ポストペットのようであり、アメーバピグのようであり、どうぶつの森のようである。もはやSNSに新規性を持たせるのは、コンテンツ的にも技術的にも難しいのかもしれない。全部のせ。楽しく触るも「で?」という疑問が拭えない。いつまで持つかな。

夜、斉藤真理子さんが肩書きを「翻訳者」としていることに気づく。とてもいい。自分のTwitterのプロフィールを「文筆家」から「執筆者」に変えてみた。そのあと寝るまでわたるのくれた学生時代にやってたバンドの写真やライブ映像の整理。粗いけど、いまも見直して楽しめているのだから、がんばっていたと思う。ふつうにメンバーたちの演奏がうまい。ぼくは当時ずっと、ギターソロの間どうしていたらいいか困っていた。ひまなのだ。Youtubeでピンボーカルのバンドの映像をたくさん見て、研究もした。ピンボーカルというのはかなりフィクショナルで、かなり演劇的な存在だと思った。歌以外に担う部分が大きい。

 

1月29日(日)

今回の目的だった、「界遊」をはじめとする過去の資料を探し出すべく、自室の段ボールをひっくり返しまくる。実家の自室にある本は大きく分けると、2014年に療養のために帰省していた時期のものと、その後の引っ越しの際に「これは今読まないな」と判断して郵送したものの2つにわかれる。今回探し出したいのはその前者の蔵書で、このぼくの人生の波乱の時代にまつわるものばかりだから、開けるのに勇気がいる。

「界遊」たちはすぐに見つかった。その他にもたくさんの懐かしい資料がまあ出てくる。全部は持って帰れないので、とりあえず使えそうなものをベッドの上に雑にならべ、あとで仕分けすることに。「界遊001」「界遊002」「界遊003」と久々に対面。それを創刊号からひたすらに読む。見るまでは覚えていないように感じていた当時の出来事と流れが、読めばすぐに思い出されていく。やっぱりこれを探しに来て良かった。創刊号、そうとう恥ずかしくて読めないだろうと思っていたけれど、粗いのは粗いが、ひたむきな文学をなんとかしたい、もっとひらいた言論空間をつくりたい、という思いがしっかりとまぶしくて、まったく恥ずかしく思わなかった。これは大人が助けてくれたのも理解できる、そんな気にもなった。夜までかけて、隅々まで3冊読む。