武田俊

2022.2.27

メタバースの彼岸、マルチバースのほとり

引き続き大きなうつエピソードの余波が続いていたので、おなじく2月16日まで生き延びた武田俊が、断片的に記されていたフィジカルの日記を解読し再構成して、お届けします。()は2月16日の武田によるつっこみ。くわしくは前週のエントリを読んでみてください。

2月7日(月)

ピーキーなむらっ気に支配されるしかないぼくは、社会に触れていてはまわりに迷惑をかける。だからすべての仕事とと社会的活動をやめようと思う。けれど、『躁鬱大学』に従ってじっとしていた。じっとしてたら、エネルギーがいつか貯まるって書いてあったから。全然そう思えないけどそうする。

(よくできました!その通りだし、そのくだり、君はアンダーライン引いたり書き込みしたりしてるくらい、何度も読んでるんだよ。なんなら自分自身の考えにすらなってるんだよ。でも、思い出せないよね、わかるよ……)

なにもできない。
今のぼくには理想のタスクをこなす力はないみたい。
じゅんちゃんが「午前にひとつ、午後にひとつやりたいことができたら十分よ」と言う。

「ぜんぜんそれでいいって思えないよ」
「じゃあさ、できたことをお花だと思おうよ。小さなことでもかわいいお花よ。お花をひとつずつ摘むの」
「お花……」
『笑っていいとも』のスタジオに飾ってあったような、ああいう豪華な花束を目指そうとしてるようにみえるよ」
「いいとも…」

加点方式で人生を生きてみたい。
息も絶え絶え半蔵門。
なんか知らんけど、オンプラはふつうにできた

(そう、ラジオやpodcast、トークイベントなどの仕事に関しては、君はなぜかうつでもできるんです。でも注意。それは「しゃべる仕事」が向いているからじゃあたぶんない。行ってしまえばやるしかない、行って現場を乗り切ればいいってタイプの仕事なら、予備電源でもいいパフォーマンスが取れるってだけなんだ。瞬発力。でもその予備電源はあくまで予備。それすら枯渇した時のことは、考えたくないよね? だからどうかがんばらないで)

2月8日(火)

午後、起きて原稿。今日はお花を摘んでいくことだけを意識して生きようと思った。
原稿のお花、ランチのお花、午後に紅茶を淹れられたお花──。子どもの時の「よくがんばったで賞」みたいなあれ、ダサいダジャレが好きじゃなかったけれど、このうつでままならない生活の中での小さな達成を祝福するお花は、かつて「よくがんばったで賞」と呼ばれていたんだろうなあ。

夜、伊織もえさんのラジオ「伊織もえのCHUCHUチューズデイ ~夜ふかしラジオ~」に、「本のオタク様」として出演して、いくつか本を紹介する。近藤聡乃『ニューヨークで考え中』、有賀薫『こうしてわたしは料理が得意になってしまった』の2冊。

リスナーさん(つまり伊織さんのファンのみなさん)が、ぼくにもめちゃくちゃに優しい。ぼくのおすすめする意図を適切に真摯に解読しようとしてくれるし、どこかに自分の興味を持つフックがないか丹念に探してくれる。その感じがTwitterでハッシュタグを追っていると、じんじんと伝わってくる。ぼくもこんなファンに支えられたい……とそればかり途中から思う。

(ファン商売は、でもそれはそれですごく大変なことだって今はフラットに思えるよね。自分をタレントだと思う必要はないけれど、きつい時も、感情的な時も、たとえばTwitterに何かを書く時には自分の学生のことを意識すると、きっといいフレーズがこぼれてくるよ。試してみて!)

2月9日(水)

たくさんやりたいことが浮かぶけど、調子がついてこなくてじりじりしている。強く希死念慮を感じるほどではないけれど、きつい。でもゴロゴロしていたら、少しチャージされたかも?
不思議なことに夕方から元気が出てきた。

(はい、きました〜。これ、典型的なパターンです。じっとしてると徐々にエネルギーが蓄えられてきて夕方くらいから活動的な気持ちになるのが、君のいつも通りのパターンです。それも覚えられないわけなんだよねえ。あ、バカにしているわけではないからね。いつものパターンってことは、つまり安心だってことだ)

2月10日(木)

6時半起。そうじ、せんたくものの仕分け、自分ののたたむ。目がひらいてきて力が湧く感じ。まずは身の回りからだ。午前に原稿、午後に「MOTION GALLERY CROSSING」の収録も無事できた。
全部終わってぐったりだけど、久々に充実感。

(すばらしい! けどけど、振り返ってみてほしい。今回君がぐったりしていたのは、実はごく短時間だったってこと。もちろんこの後にも波は来ますし、またすぐ死にたくなったりします。けれど、本人の体感しているよりも実際に経過している時間はそこまで長くないってこと。他の人と違う時間軸の中で生きていることを、なんとか思い出してみてほしい)

2月11日(金)

とんかつさんと小川町、神田、渋谷と回ってエリアトラウト用の釣具をたくさん買ってきた。シマノとダイワのリール設計における思想の違いを熱弁してくれた店員のおじさん(シマノ派)が、熱弁してくれて勉強になった。でもめちゃ疲れた。13198歩。

(記述が具体化されていくのはいいこと。世界を捉える解像度が戻ってきてる証拠だよ。でもあまり細かく見ようとしすぎなくて、今は全然よかったりする。あとMIバンドで計測された歩数を書いていくのはいいアイディアだね!)

2月12日(土)

9時半に小田原へ。横田さんととんかつさんと開成FSに。しぶいエリアだと言われていたけど、4時間で6匹釣れた。これは多いほうなのか少ない方なのか、経験が足りないからわからない。大きいものは40センチ強で、横田さんちでさばいたら赤身だった。ちゃんちゃん焼きにして食べさせてもらう。9292歩。くにくに。

2月13日(日)

管理釣り場でも釣りは疲れるもののように。くっちゃねしておわり。

(だいぶよさそうだね。日記はこのあと途切れてしまっているけれど、察するに未来のぼくが登場するようなピンチはなんとか避けられたみたいだよ。一旦ぼくは退場することにしよう。でも必要な時は、いつだって戻ってくる。何回だってやり直せる、何回だってやり直す。死なない限り、それはできる。

だからここで、君にとっておきのことを教えておきたいと思う。忘れてしまっても構わないから、ここに記しておきたいと思う。

実はぼくたち、いつも共に生きているんだ。いや、ぼくだけじゃあない。これまで君が下した人生の重要な決断の先、分かれてしまった世界線の先に生きるたくさんの「ぼく」とぼくと君はいつも一緒に生きている。遠く離れながらそばにいて、バラバラなまま共にある。

うつは擬似的な「死」だ。あるいは、儀式的な「死」だ。だからその儀式のあとに、君がかなしい選択をしない限り生物として死ぬことはない。

ぼくたちは、君の下すあらゆる選択を肯定する存在だ。けれど、もし君がかなしい選択肢を引き当ててしまったら、体の一部を失ったような重く冷たい気持ちに支配されることだろう。だからどうかこれが儀式的な「死」であることを理解して、毎回生き直していってほしい。

ぼくたちいつだって共にいて、だから毎回強くてニューゲームだ。しかもこれはソロプレイのゲームじゃない。メタバースなんて目じゃないぜ? そんな言葉はバズ屋とマーケターに任せておけばいい。ぼくたちが生きるのは、次元と世界線を越えたセルフィッシュなマルチバースだ。

だから、生きろ。生きてさえいれば絶対にそこがトゥルーエンドの過程だ。

何回だってやり直す、何回だってやり直す。)