武田俊

2023.7.4

そもそもアンバランスな人生──はじめて子を持つぼく(たち)のための覚書

妻のお腹に子どもがやってきた、ということがわかったのは2023年の3月の終わりのことで、計画的でなかったぼく(たち)は驚いた。

子どもがいたらそれは素敵なことだよねえ、というのは結婚当初からのふたりの考えだったけれど、一方で大変な不妊治療にのぞんできた先輩たちの心身的苦労もたくさん聞いてきた。だから「できたらハッピー、できなくてもハッピー」って感じでやっていこう。そう話した結婚生活も6年経ち、ふたりは36歳になった。

別の場所でも書いたけれど、地元と東京での暮らしがハーフ&ハーフとなる干支3週目のこの年齢を、ぼくは色んなターニングポイントだと思っていてて、なので子どもを持つことについても話し合ったのだ。

「どうやらぼくらには子どもができないっぽいねえ」
「そうね。かといって、原因特定をするのも苦しくなるよね」
そこで彼女はこう重ねた。
「でも大丈夫、私たちはDNAじゃなくって、ミームを残せばいいじゃない!」

そうなのだ。デザイナーと編集者っていうカップルのぼくらは、幸いなことにふたりとも教育にも携わっている。自分たちが獲得してきた様々な知識や技術は、遺伝子というビークルに乗っけなくても、教育を通じて伝達し、社会や未来に還元できるじゃないか。

こりゃいいや、ってことで、もうその先についてあれこれ話す必要はなくなった。自分たちの消費欲求に飲まれるんじゃなくて(といいつつ、そもそもぼくらにそういう欲求は希薄なのだが)、日常生活のさまざまなシーンで意義を深く感じる部分にしっかりお金を使っていく。そういうクールなDINKsとして、日々を楽しみ慈しみ、老いてゆく時間すら楽しんでいこうね。そんなふうに話した矢先、想像もしてなかった子どもというのが、やってきたのだった。

まじか、という戸惑いは、最初に見たわずか2センチほどのエコー写真で、一気によろこびに変わった。こんな豆みたいなのに、ひとつの命で、すでに心臓の鼓動が観測できるっていうこと。そのおぼろげな像を、今かわいいって思うということ。そのことを、うれしいって思うということ。

それからの妊婦健診は、できる限り一緒に行った。「おまめちゃん」って呼ぶことにしたその子は、どんどん大きくなり、すぐにひとの形となり、一度はエコー診断中にたこ踊りなんかを見せることもあった。流産のリスクに怯え(安定期までは15%もの確率でそのリスクがあるなんてまるで知らなかった)、彼女のひどいつわりのケアをちょっとし(序盤、栄養バランスに気をつけて食事を考えたりしたが、食べられるものが毎日変わるので、ほぼできることはなかった)、自分自身の体と健康にはなにも変わることがないまま、ぼくの側からするとあっというまに世に言う安定期を迎えた。

「ほぼ間違いなく、女の子ですね」
そう告げられた瞬間、どっちがいいとかなかったぼくは、どんな顔をしていいかわからなくって、その日一日中「娘を持つ父親が将来体験するだろう悲しみ」のバリエーションを、ひたすら想像してみたりした。その苦悩すら、きっとよろこばしいことなのだろうと、それもまた想像しながら。

さて、いつ人に言ってもよい、といわれる時期になって、その伝え方に戸惑った。
ごくごく親しい人には告げていたが、社会的に口にするとき──具体的には、SNSほかで発言するとき──自分はどういう言葉づかいをするのか、自分でも定まりきらない。

大学講師でもある彼女は、すでに出産までの、そしてその後の仕事のしかたについて周囲の協力を仰いだ上で、それこそ「デザイン」する必要があった。それを淡々と進めていた彼女は、妊娠するまで毎日のように仕事や暮らしでの発見を発信していたTwitterが数ヶ月止まっていることもあって、そのリスタートも兼ねて、シンプルなツイートで告知をしていた。うん、これはとてもしっくりくる。

同じようにぼくもしようと思うものの、違和感がある。
だいたい、自分の体にも対外的な生活にも今のところまったく変化はないのだった。それをわざわざポストするのって、なんだか大げさな気がする。自慢に聞こえたりはしないだろうか。それこそ、不妊治療に今も苦しみながら励んでいる知り合いなどが見たら、悔しいような苦しいような気持ちになったりはしないだろうか。そのリスクを背負ってポストする意義って? 自己満足とすっきり感以上の何かが生み出せるのか?

それに、出産ならともかく、妊娠の段階で男性の側の方からSNS上でお知らせをするというケースって見たことない。でも、しないならしないで、妻は気を悪くしないかしら。いや、しないとは思うけど、でもなんだかお知らせしないっていうのは、変な誤解を生みそうだしフェアじゃない感じがして気持ちが悪い……。

そんな逡巡を1ヶ月くらい繰り返してしている間にも、もうとっくに「おまめちゃん」じゃなくなった子どもは大きくなっていく。

それで、7月3日の夜だった。ぼくははじめて左手で、胎動を確認する。
2週間くらい前から「1日に数回、ビー玉が転がるように動くのよ」って、うれしそうに話す妻のことがうらやましくてうらやましくて、寝るまえにおなかを出してもらって、手を当て、じっと目を閉じて動きを探していたのだった。釣りで小さな魚のアタリをとらえるときのように、すべての神経を指先に集中させて。彼女のおなかの中だけが世界のすべて。そういうイメージで。この時期に胎児が起きているのは1日のうち4時間程度だという。確率論からいって、めったに妊婦本人以外は感じられないっていうその胎動に、なんとか触れてみたくって、何度も試していた結果、ふいにころりとそれが手のひらに触れたのだった。

それで言葉が見つかった、気がした。
それで今、その言葉をひとつずつ探すようにして、一発書きで書いている。
ぼくにできることは、このあとの時間の中で、きっと大きく変化していくだろう、子を持つということの実感を、そのときどきの形で記述していくことだけだってわかった。慌ただしい中で、必ず「色々大変だったけど、まあなんとかなったよ」みたいに上書きされてしまう実感を、ただ残していくことのようだった。

ここまでの暮らしでわかったのは、当然のことで、子を身に宿し育てている女性の体が刻一刻と変化しているのに対して、男性としてのぼくには何も変化がないことだ。出産までの流れをひとつの旅だと考えたら、そのリスクに向き合っているのは全部女性で、ぼくはただ彼女の歩く道に従って(できるだけの知識はつけていこうとしているものの)ついていっているだけにすぎない。ぼくらの性は、こんなにもアンバランスだ。妊娠・出産において男性は、構造上主体性を獲得できない。そのことが、なんだかとても悔しいような、もの悲しいような気持ちになっている。

アンバランスなのは性だけじゃない。認知特性がパキパキに尖っていて、生きにくいとされる診断名を与えられているぼくにとっては、毎日ただ暮らしていくこと自体がアンバランスで、当事者研究を必要としている。生きることはすなわち、自分を研究する日々なのだ。自分の身体と精神の状態はほんとうに謎で、どれくらい疲れているのか、何を食べたいのか、どうしたいのか、いつもぼくにはわからない。自分にとって世界以上に自分自身が永遠の謎で、輪郭を持たないぼくは、仕事や創作といった手段でもって、世界と他者に触れるその瞬間、その接点の面積においてのみ、自分のフレームを発見する。あ、今自分って、こう思ってたのかも。そこではじめてわかる。

輪郭を持たないぼくが、まだ自分を獲得する以前の、まっさらな命である子どもを育てるというのは、いったいどういうことなのか。ふたりぶんの当事者研究が、きっとはじまることだろう。そして、人称を持たないふたりの接点から、たぶん新しい世界が生まれる。そのことだけで、もう十分に生きていく価値があるんじゃないか? ひょっとしたら、ぼくはそこで生まれれてはじめて、自らの子どもを通して、自分に出会ったりするのかもしれないな?

その子が、女の子だっていうこと。今、すごくポジティブに感じる。どうしたって男性であるぼくは、自分たちの性が優位に働くようデザインされた社会で、自分たちが履かせてもらっている下駄の高さに無自覚だ。どれだけ意識しようとしても、意識は経験から裏打ちされたものでしかないから、ぼくにできる意識はせいぜい「傷を抱えてはいるものの、ゲームの優位者でしかない男性のそれ」ってくらいのものだ。

まだ名前のない彼女と過ごす暮らしは、そのアンフェアな社会をきっとぼくにひしひしと伝えることになるだろう。そこで、はじめてぼくは、これまで自分が履いてきた下駄の高さを、やっと知ることになるのだろう。それで、そこからどうするのか。それはぼく(たち)次第だし、そこで起こすアクションや思考自体が、まだ名のない彼女への教育に形を変えていくのだろう。

生まれてくる子ども、生まれなかった子ども、生まれるはずだった子ども。
そこにいったいどんな差があるのか、ぼくにはてんでわからない。それぞれの親の、よろこびや悲しみが、想像しようとしなくても、様々な場所から語りかけてくるみたいに、じんわりと入ってくる、そういう感じがするだけだ。

ただ確かな実感があって、そして確かな実感は人から人へ語り継がれるから、よく見聞きしてきた言葉に似ている。それをその通りに口にするのは、言葉を仕事にする人間として、悔しい。それでも形にするならば、ただ、君は安全に生まれてきてくれさえすればいい、そのことだけを祈っている、ということだ。ぼくには、君を産んであげることすらできない。

君が無事に生まれたら、なんて声をかけるのかな。
たぶんぼくにとって君は、きみ自身が、あたらしいひとつの世界。はじめまして、ようこそ、よくきたね。そういえば、Hello, world!って、昔のインターネットでよく見たね。そんな気持ちでぼく(たち)は、互いに呼びかけあうのかもしれないね。ぼく(たち)にとって、お互いは、新しい世界。
それぞれ声にも言葉にもならない、産声と涙声で
Hello, world!
ようこそ、世界へ。きみ自身の世界へ。
そう呼び合える、大丈夫な日々であるように。

 

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#2|つわりのおわり